プロフィール
木村雄二(マイラバハドール)
木村知珂子(スニータ)
本籍:東京都江東区亀戸
専門:医師 病理専門医 肺癌 腺癌
クララ細胞 肺胞I型細胞 cyp450
勤務:浪江町国保診療所 浪江診療所
マケドニアン・コールに答えて。
福島県双葉郡浪江町国保浪江診療所 木村雄二
イエスキリストを私の贖い主と信じ江戸川で洗礼をうけたのは18歳の高校生の時だった。それから3週間後の1962年11月23日、高校生伝道に魂を燃やしていたケネス・クラークと堀内顕が渋谷公会堂のHi-B.A.(高校生聖書伝道協会)の集会でネパールのハンセン病の子供たちのために働き手を募った。写真を通して「誰かこの子達のために働く者はいないか?」との訴えに手を挙げて応え、建築家志望を医学部受験に切り替えた。
卒業後、結核研究から肺癌研究に進み、病理医の道を歩み、30年の月日がたった。
1991年、ネパール合同ミッションンの外科医フランク・ガーリックは全世界へクリスチャン病理医を求める公募を発信した。そこで1992年2月にキリスト者医科連盟(JCMA)は「医学と福音」に「ネパールで働くクリスチャン病理医を求む」という広告を掲載した。それを、「ネパールに一緒に行ってくれないか」というプロポーズを受けて結婚していた妻が見つけた。「確かに病理医とある、本当に珍しいわね!」とその記事は妻から私に手渡された。走馬灯のように30年前がよみがえった。これはネパールからの私へのマケドニアン・コールと確信した。神様からの私たちに対するご計画は停滞していたのではなく、忘れられていたのでもなく、タイミングを図っておられたのだ、と知った私たちは1993年、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)からネパール合同ミッション(UMN)に派遣され、2000年までネパールで癌の診断ができる病理医の育成に心血を注ぐこととなった。
ネパールで阪神淡路大震災のニュースを聞いた。言いようのない不安と何も出来ないもどかしさの中、私たちは母国日本のために祈った。2000年に帰国後、報告活動の折、復興中の神戸を訪れた。4年後ネパールから呼び寄せた二人の弟子は訓練終了し、ネパールへ帰国した。そして私たちのネパールプロジェクトも終了した。
2017年3月にカトマンズで開かれた南アジア病理学会に集った300人の病理医の中の200人はネパール人病理医だった。この学会の会長は愛弟子の一人、JOCSからの多大な援助を受けたゴピ・アリアールで、現在パータン医科大学の病理学教授である。
一方私は2006年から長崎県佐世保市の黒島、宮崎県串間市の市木、長崎県五島市の椛島、黄島、赤島、大分県佐伯市直川など離島、僻地医療に従事した。東日本大震災の時は佐世保市黒島にいた。島に一人の医師だった為、またしても被災地へ出向く事はできなかったが、現地からの要請に応じた物資の手配は教会に協力して行った。
そのような中でJOCSからの月間祈りの花束は私たちの心に平安をもたらしてくれた。それは被災地を毎月5日から1週間チームを組んで医療班がこの7年間、訪問し続けてくれたことだ。彼らは自分の時間を捧げ、黙々と現地に赴き、被災者の悲しみや願いに寄り添われたのだと思う。まさに継続は力となったのだろう、彼らが行ってくれているという安心感で嬉しかった。
大分県佐伯市直川の僻地医療に携わっていた時、ユーチューブで福島県浪江町の馬場有町長の動画を見た。彼は訴えていた。「浪江町の帰町解除にはまず診療所が必要です。そのためにお医者さんが必要なのです。」
御言葉が迫ってきた。「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』」1)これが3度目のマケドニアン・コールだった。浪江町の課長にメールを送った。「71歳の爺ですが、よろしいですか?」と。返事は「OK」。「やっと私にも援助ができる。福島で仕事をしよう」と、妻と話し合った。そして今、福島にいる。東京と筑波で電子顕微鏡13台を使い、福島の電力で研究をしてきた。今度は私が応援してもいいのではないか、と考えた。
浪江町は7年前の東日本大震災で半壊したままの状態の家屋が点在。工事関係者以外、人の姿はほとんど見られない。駅から500m東、浪江町役場の敷地内に鉄筋平屋建ての浪江町国民健康保険浪江診療所がある。2017年の3月31日、東京電力福島第一原発事故に伴う浪江町の避難指示が、帰宅困難区域を除いて解除された。それに先立ち、町唯一の医療機関、国保浪江診療所が完成し、3月30日からスタートした。
診療所には、CTや内視鏡、救急外来処置室などを備える。帰還している人は400人ほどで、町民の2.4%に過ぎない。その多くが高齢者。30、40代の働き盛りは、家があっても仕事がないため、戻って来られない。親が戻れないから、子どもも戻れない。
これまで受診した人は、浪江町に戻ってきた高齢者、南相馬や二本松など周囲の町から来る人、浪江町で仕事をする作業員や4月に発生した山火事の消火にあたった消防隊員などだ。皆が戻って来られるようになるまでは、まだ何年もかかりそうだ。
1年間の診療はそれほど忙しくなく、本を読む時間が与えられた。その中の一冊、私の中学の先輩の大野晋の「日本語の起源」2)は目から鱗だった。南インドのタミル語が日本語に近く、7000Km離れた日本にどのようにして言葉や習慣が渡ったか、を研究した大作だ。荒唐無稽な説だが、私のネパールから福島への7000Kmを結びつけた神様の御計画に思いを馳せる興味深い説である。ここ福島で日本語の歴史を楽しんでいる。2018年4月開校の「なみえ創成小学校」と保育園に10人の子供たちが戻ってくる予定だ。学校の周りに帰還した町民が花の苗を植え終えた。浪江町は確実に復興しつつある。私たちも福島の復興の役に立ちたい。
1) 聖書新共同訳 使徒言行16章9節 日本聖書協会 2007年
2) 大野晋「日本語の起源」岩波新書 1994年
上田市に落ち着いたある日、青木村へ行く事になりました。宿のチェックインまでの間、村の昆虫館を覗いてみました。そこで出会ったのが、ゴライアストリバネアゲハでした。
ウマノスズクサに卵を産み、幼虫はウマノスズクサを食べて毒が体の中に溜まる間は黒い体で鳥の糞の様になっているため、鳥は食べません。
体内に毒ができる頃になると体は青くなり、それを鳥が食べると吐き気をもようし吐き出します。他の鳥にも知らせ、鳥は食べなくなります。
決して鳥を殺しはしません。鳥が死んだら他の鳥に知らせられないからです。
ウマノスズカケの実を鳥が食べ、糞を介して他の地に運びます。ウマノスズカケの根は青木香(セイモッコウ)という漢方名がついています。鎮痛、消炎、解毒作用を持ち、子どもの夜泣などにも処方されます。
アゲハの毒もこれによります。Aristolochia:ギリシャ語の「aristos(最良)」+「locheis(出産)」の意で、安産の効能があると伝えられています。
ゴライアストリバネアゲハは、節足動物門昆虫綱チョウ目アゲハチョウ科のチョウの一種。
学名の由来はもちろん旧約聖書からです。同じような名の昆虫に、ゴライアスオオツノハナムグリがいます。
ゴライアスカエルはカメルーンにいる体長60cmの大ガエル。
ゴライアス製スニーカーはオランダの靴屋さん。ゴライアスサンダルを購入しました。土踏まずが浮き上がっていて快適です。流石にサイズは最小で25.5cm、サンダルだからよかったものの、大きい。
ダビデが向かってきたら逃げます。特に額には気をつけないと。しかし、この会社1925年創業。紀元前ではありません。紀元前に潰れて再建されたのかな?
正式な会社名はオランダゴライアススポーツシューズカンパニー。1937年、オランダの南部の町ティルブルフでSir.Van Amersfoortに再建された。オランダ人が愛するクリケット、当時無骨だったクリケットシューズをファッショナブルに仕上げた画期的なブランド。オランダ発祥らしいさまざまなテイストをミックスした、古くて新しいイメージの靴。「しっかりと紐を結ばないと、ギアに絡まりますよ」という注意書きも自転車王国らしい。
ダビデには弱いけど、ゴリアテサンダルでコロナには負けません。サンダルだから指が見えます。5本でした。6本だったらもっと早く走れるかも。