韓国の外科医 梁承汶
私達の過ちを許していただけますか?
1995年12月はローカルオリエンテーションプログラム(LOP)を受けために慌ただしい時期でした。家で休んでいると外からノックする音が聞こえました。ネパールに来てからわずか4ヶ月。我が家を訪れるような親しい友人はこの時まだいませんでした。ドアを開いてみると、小柄な紳士がヘルメットを取って挨拶しました。パータン病院で病理専門医として働く日本人医師の木村先生でした。幾度かお会いし、顔見知りになっていましたが、言葉を交わした事はありませんでした。
先生は「今日我が家で食事をご一緒しませんか?」
断る理由もなかったので、もちろん承諾しました。木村先生のご自宅はとても質素でした。ネパールに来て働く外国人の多くは宮殿のように大きな家に住むのが普通なのに、木村先生ご夫妻はネパール合同ミッションの住宅担当が用意した素朴な家に住んでいました。
ドアを開けるとすぐに、お肉を焼くいい匂いと煙が先生ご夫妻よりも先に近づいてくれました。炭火でお肉を焼いている様でした。お客が来る時間はとうに過ぎていましたが、料理はまだかかるようで奥様は慌てたような表情でした。でも食卓が物足りなかった訳ではありません。食卓には既に様々な料理が並べられていました。奥様手作りの大根キムチもありました。ほうれん草のお吸い物、プルコギを始めとした多彩な料理が並んでいて、素晴らしい物でした。外国人が中途半端に作ったキムチや韓国料理ではありません。韓国人の作った本格的なものと変わりありません。食卓は暖かな雰囲気でした。楽しい話をして何度も大笑いしました。 それからどのくらい経ったでしょうか、奥様がそれとなく先生に合図を送りました。そろそろ本論に入れ、という眼差しです。にこやかだった木村先生の顔に緊張感が漂いました。静まった空気になった瞬間、驚くべきことが起きました。
突然先生の目から大粒の涙が流れました。感情が高まり容易に言葉がでませんでした。先生は苦しんだ末,静かに口を開きました。
「日本が韓国を侵略して犯したしてしまった過ちを許して下さい。日本人が韓国人を苦しめたことは本当に申し訳ありません。」
そう言うとすぐに食卓を立ち、奥の部屋に走り出しました。流れる涙を止めることができないようでした。国の犯した間違いを個人的な罪と受け止め、真剣に謝罪をする姿を私は初めて見
ました。思いがけない謝罪にどのように反応しないといけないのか戸惑いました。心の底から謝罪されるのでもちろん許します。過去を精算して未来を歩んで行く必要があり、そこにクリスチャンが重要な役割を果たさなければならないと話し分かち合いました。
木村先生ご夫妻は日本キリスト教海外医療協力会という団体に所属しています。日本が第二次世界大戦前後に蛮行を犯した事による東南アジア国家に対する謝罪を願うクリスチャン達の集まりでした。 医療を行う人たちを始め、多様な事をする支援者達が東南アジア各国に出て行き、活動しているとの事でした。ご夫妻はいつか機会があれば韓国人に直接、謝罪しなければと思っていたそうです。同じネパール合同ミッションに韓国人の医者が来るという知らせを聞き、すぐに夕食の招待をしてくれたのでした。まず謝って許してもらってから気楽な関係になりたいという思いでした。その日の食事が終わってから私達の関係はとても深い物になりました。患者を治療する時に、外科医と病理医は頻繁に意見を交わします。カトマンズに行く事があれば、ほんの少しでも顔を見に伺いました。ご夫妻がタンセンまでいらして下さる事もありました。
木村先生は優れた医師であり、学者でした。病理医として日本だけでなく世界的に認められるポジションにいました。早くから優れた研究業績を積みアメリカの病理学教科書に名前の載るほどでした。大学では教授を目指す地位にいました。それほどの人がなぜネパールのような貧しい国で不便な生活と悪条件の中で耐えながら暮らしているのでようか?それは十代に心に誓った約束のためでした。
高校生の頃、ネパールに仕える宣教団体の活動を知りました。そこでハンセン病患者の子供達の写真を見ました。その集会の場で医者になる決心をしたそうです。医学部に入るのは日本人にとっても容易なことではありません。神様が味方して下さる事を確信し受験しました。面接官が「合格する自信はあるか」と言う質問に堂々と「ハイ!」と答えました。医学部進学後、熱心に勉強し外科医の道を考えました。患者の胃の検査の際に放射線を浴び、体調を崩しました。その後、不思議な導きで病理解剖学を選ぶ事になりました。方向は変わっても情熱は変わりません。病理学会での発表、論文作成、研究、診療、講義と多忙な日々が続き、30年の月日が流れました。病理診断の専門家を切実に求めていたネパール合同ミッションは全世界に発信しました。日本にも病理医募集のニユースは送られました。クリスチャン人口の少ない日本からまずいないだろうと日本の事務局は2年間募集をしませんでした。手紙を整理していた新総主事が1992年2月にその募集を公にしました。その公告を見つけたのが木村夫人でした。帰宅した木村先生に手渡して「ついに神様との約束を守る時がきたのでは?」木村先生はそれを召命と受け止めました。
木村先生は持っていた資金を使って病理診断に必要な医療器具を購入しました。家ひとつ所有していなかったのに装備を整える為の資金は惜しみませんでした。ネパールの状況はあまりにも劣悪だった為、用意しなければならない物は一つや二つではありませんでした。五人で見る事のできるディスカッション顕微鏡、データを蓄えるコンピュータを用意しました。ネパールの90の病院や診療所からサンプルが送られてくるようになり、年間8000件にもなりました。ネパールの病気の論文もアメリカの雑誌に発表しました。
さらに木村先生は電子顕微鏡を得る計画を立てました。1年で300万円づつ貯金し10年で3000万円。1年目は順調に目標額に達しました。しかし2年目には東京医科歯科大学から使用していた電子顕微鏡が贈られることになりたました。輸送費の1012万円を払えばよいのです。ちょうど定年退職した友人が無利子で1千万円を貸してくれました。神様の計画は人の計画と異なりました。1998年、トリブバン大学に電子顕微鏡が設置されました。多くの大学院生がトリブバン王立大学で病理学を学ぶようになりました。ネパールの二人の弟子を日本に送り、日本の大学での病理学博士課程で学んでいます。
木村夫人は玩具をもって小児病棟を訪れています。人形、飛行機、自動車など生まれて初めて見る珍しい玩具です。この仕事は決して簡単な事ではありません。一度子供達に貸し出し、戻るたびに必ず消毒をしなければなりません。人形はいちいち服を脱がせて洗い、乾かしてからアイロンをかけるのです.電動玩具はすぐ壊れてしまい、木村先生の手をやきました。誰かの手を借りたくてもそう出来ない状況でした。木村夫人は煩わしい労働を数年間してきましたが、ただの一言も不満を言う事なく働きを全うしました。
木村先生ご夫妻は誰からも尊敬されていました。ネパールの人たちは元論,西洋の人たちからもお二人の謙遜で誠実な姿を心の底から慕っていました。英語が苦手だったため、ネパール語で意思疎通をしましたが、心の中を知るのに語学は重要ではありませんでした。どんな人をも愛し、誰からも尊敬され、お二人こそ世の中で一番幸せな夫婦なのではないでしょうか。
木村先生ご夫妻はネパールでの7年間の働きを終えて、日本に帰られました。今は東京の病院で病理部を任されています。病床は500を超えるというので大きな病院です。年棒も日本の病理医の中では当然、最高だ思います。立場が変われば生き方も変わってもおかしくないのに、ご夫婦は以前と変わらず学生達の学びと生活を助けています。木村夫人はビスケットやクッキーを手作りし、売ったお金で名パールの教会に献金します。一年に一度は募金した支援金とプレゼントの包みをもってネパールを訪れます。
以前お会いした時、老後対策は万全なのかと尋ねました。韓国に戻ってみると私自身も老後の事を考えないといけないと心配していた所だったのです。木村先生の口からは年金や通帳といった単語は全く発しませんでした。ほんの一言だけでしたが、それが私の心に今でも残っています。「ヤン先生、何のお金がそんなに必要なのですか?ただ生きていくのに、そんなにたくさんのお金は必要じゃないですよ。」
「ナマステ ドクターヤン」 から抜粋 韓国語から日本語訳は井上真美さんにお願いしました。