パータン病院 病理部

ワークオリエンテーション

 

 ネパール語の研修の間にワークオリエンテーションがあります。これは六月からの実働の前段階という事で一週間の職場勤務で、パタン病院の検査科の現状分析です。実に何もない病院で何もかも一から始めなくてはなりません。鏡検室、染色室、カンファレンス室そして私の居場所の確保からしなければならないのですが、これには部屋を四つ増築しなければなりません。ざっと見積もって九五万円です。病院には予算はなく、UMNも考えておりません。病理医募集の際の義務の所には免疫組織化学等を駆使した高級な仕事をしなければならないようでしたが、設備の面からまず整えていかなければならず、頭の痛かったオリエンテーションでした。

 病院では医者は英語で全て処理しています。ネパール語は患者と話をするときだけです。カルテもオーダー、検査データ、看護記録まで全て英語です。学生時代、大学病院のカルテにドイツ語が多かったのを、ふと思い出しました。ネパール人の若い医者に聞いたところ大学の授業も全て英語だったそうです。でもかなりの部分で彼らがイニシアを取って診察をしていますので近い将来ネパール語のカルテや医学書も出てくる事でしょう。

顕微鏡出獄

 五月一二日水曜日、空港に行って顕微鏡を引き取ってきたのですが、水曜日はパタン病院が休みの日で一抹の不安はあったものの何とかなるだろう、当直がいなかったらロバートを呼び出して何とか押し込めよう、等と考えながら病院まで行きました。アナンダバンのハンセン病院の診察が終わっていなかったため、検査室は開いており、スラジ氏と丁度顔を合わせました。彼に頼んで無事、顕微鏡は技師さんたちの研究室兼休憩室に運び込みました。一応、検査室に納まった訳です。しかし、顕微鏡の送り先がパタン病院ではなく、木村雄二宛であったため、税関ではしっかり税金を取られてしまいました。そのかわり、顕微鏡は全て私の私物となった訳です。

 パタン病院には置き場所どころか部屋もなかったのですが、強引に運び込んだ事により、この顕微鏡の置き場所をどこにしようかという検討が始まったようです。ヨルダン川に一歩踏み込むと乾いた地が現れた、という具合で、研究室兼休憩室の中間にあった壁が取り壊わされ、広い部屋になると同時に顕微鏡の置き場所が出来、私の居場所も何とか確保できました。

 こんな時に横須賀共済病院の三浦溥太郎先生から病理の新刊本が送られてきました。久しぶりにみる医学書で何だか心がウキウキです。

仕事初め

 

 一九九三年六月一七日から病理の仕事始めです。まず、顕微鏡のセットアップを行いました。実体顕微鏡の対物レンズにかびが生えていましたが、これはかなり内部の方なので後々ゆっくりと掃除をしなければなりません。

 しかし命であるハロゲンランプが壊れていたため少々慌てました。テキサスから来ている技師ロバート・ワトソン氏の感が働き、カトマンデュのナショナルショップに出かけて行き見つけてきました。変圧器は施設課の方から五百ワットの小さい物を戴き、顕微鏡がやっと使えるようになりました。沢山の機械を運び込んだなぁ、という感じで一息ついていると次から次へと訪問者がきます。そして決まって、どの位する物か?という質問が発せられますので、ざっと計算したところ、なんと五百万円ぐらいの機械です。小さな部屋はさしずめ工場のようで、若いドクターから、電子顕微鏡ですか?と尋ねられたほどです。電子顕微鏡を期待しているドクターがいる、将来入れなくては、なんて一瞬考えてしまいました。あわてて水が少ないし、きれいではない、電気の供給が一定ではないので電子顕微鏡は入れられない、等の説明をしてしまいました。実際はお金がないのが一番の原因で、お金があれば一番先にでも入れたいのですが。

 それにしても初日にバイクで電球を買いに行ったり、自分の机を注文しに行ったり、日本では考えられないような仕事始めでした。二日目には何とか机と本棚が入り、部屋らしくなってきました。電話は検査課の主任の電話から線を延ばして親子です。番号は何番ですか、と聞いたら、調べてみます、という事で、返事は三週間後に帰ってきました。外科材料や生検組織の報告をし始め、ナイフも鋏も、ピンセットも貴重で各々一本づつ、大切に使っています。ナイフは砥石とセットになっていて、研ぎながら使います。

 私の部屋には五人同時に見る事のできる顕微鏡、そしてその画像がモニターに映し出せる機械を運び込みました。若いドクター達が替わる替わる訪れます。何とかこの中から若い病理医が出ないかなと、密かに企んでいます。

癩菌との初対面

 

 雨期に入ると、アパートの前の小さな道路は小川に変わります。マラリヤ患者も出始め、病気の多い季節に突入です。仕事を始めてから約一か月の頃、病理標本が急激に増えて忙しい毎日でした。

 一九九三年六月一七日からパタン病院での病理の仕事を始めましたが、この日はネパールの暦では二〇五〇年三月三日にあたり、この三月の事をこちらではアサール月と呼んでいます。百日紅(さるすべり)がきれいなピンクの花を付けていましたので、ネパール語では何というの、と尋ねたらアサール(三月)の花というおもしろくない答が帰ってきました。

 約一カ月の間に三百の標本を見ました。パタン病院が五三%、タンセン病院が一四%、カトマンデュの地区病院一三%、アンピピパル、ポカラのウエスタン地域病院、そしてアナンダバンのハンセン病の病院から送られてきます。疾患の内訳は癌が一二%、胆嚢炎一二%、子宮内膜疾患一七%、虫垂炎六%、と予想以上に癌患者が多いのです。もともと病理は癌を診断するのが基本ですので、何となくほっとしました。しかし結核もまだまだ多く、頚部リンパ節結核、腸結核など日本ではもう少なくなった病気が大手を振って歩いています。

 あまり見た事がない変わった炎症だなと考えながら一応癩菌の染色をしたところ、これがなんと五万と菌がいる癩腫型癩で、病理医になって二三年、初めてハンセン病と診断を下した記念すべき標本になりました。ハンセン病には癩腫癩から境界型、結核腫型まで大きく五種類ありますが、いちばん診断の簡単な癩腫癩を神様はプレゼントして下さいました。

 「私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエスキリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。ユダ二五」 

PIG-BEL

 

 十二才の男の子の空腸の壊死がタンセンから送られてきました。この病気はパプアニューギニアで見つけられた奇病です。お祭のご馳走を食べた後に発症し、ご馳走の中の豚肉と関係があるとされている腸の壊死で、そのお祭の名前からピッグベル(Pig-bel)と呼ばれています。クロストリジウムウエルチ菌(グラム陽性杆菌)が関係しているようです。

 ネパールでは豚肉はあまりポピュラーではありませんので、山羊の肉でも起こると考えているのはUMNアンピピパル病院のゲイリィパークス先生です。致死率が四〇%にのぼっているのには驚かされます。彼の書いた論文の中の病理の部分がいまいち詳しくありません。空腸だけの限局性の壊死、好酸球の浸潤、グラム陽性球菌の混在など疑問の点が沢山ありましたので、アンピピパル病院のパークス先生に手紙を出したところ、彼はイギリスに帰っていましたので代わりのパゼット先生から論文が送られてきました。やはり、病理に関しては殆ど記載がなく、まだまだ検討の余地があります。

カトマンドゥ産婦科症例検討会

 

 カトマンデュ産婦科症例検討会に出席しました。というのも日曜日の朝出勤した直後にフランク院長が今日のミーティングに出られないか、といってきたのです。院長がこう言う時は行っておかなければいけない時で、又こう言う時だけ行っておけば後のミーティングは割愛できます。全てのミーティングに出ていると体が幾つあっても足りません。ちょうど症例も少なかった時でしたので出席しました。

 一時から始まるということですので一応一時十五分前に会場の病院の前に行ったのですが、例によって一時には始まりません。ボチボチ集まり初めて一時半にやっと始まりました。症例は一七才女性の外陰部のメルケル細胞癌で延々と臨床経過や治療、予後などの病気の説明があり、病理の説明の時間がないのではないかと心配していたのですが、最後にやっと「ドクター木村、何か言う事はないですか」、ということで時間をもらえました。

 この時とばかり、この症例こそ電子顕微鏡で調べなければ明確な診断が下せない、ということを強調して会場の着飾った女医さん達の注意を喚起しました。六七十人の産婦人科の先生方はほとんどが女医さんで、それもみなさん恰幅がよく、リッチそう。大きな病院の産婦人科部長先生は全て女医さんです。電顕の話は効果があってトリブヴァン大学教育病院の産婦人科部長さんが質問してきました。今からでも日本へ送ったら電顕観察が出来ないか、という質問。勿論出来ません。電顕に関しても後悔は全く先に立たないのです。ネパールに電顕を入れなければこの国の先生方は何でも日本日本と、外国を頼りにしてしまいます。

 この会に出席されたJICAの山口先生とお会いする事が出来ました。フランクが出ろといった会は何か収穫があります。しかし、みなさん車でお帰りになる時、ひとり自転車で明るくナマステと挨拶しつつも、何かせつない気持ちも無いわけではありませんでした。

アナムネーゼ

 

患者の歴史を探ることを「アナムネーゼを取る」と言います。このアナムネーゼ(Anamnese)の語源はプラトンの「生得の知識」のようです。所謂、神に教えられた知識ですが、転じて記憶とか、既往歴とかになってしまいました。

織田信長が本能寺でとった行動がアナムネーゼであったというのは小室直樹説で、ナポレオン等の英雄的軍人にはこのアナムネーゼがしばしば味方になったそうです。

 ネパールもヒンズー社会の長い長いアナムネーゼを持っており、その過去が現在をつくり、更に将来にむけてこのアナムネーゼを引きづっていくことと思います。

患者さんの現病歴、生活史、既往病歴、家族歴を詳細に聞き出すことがアナムネーゼ取りですが、これらの情報が整理され、管理されていれば事細かくアナムネーゼを聞き出すことの出来ない緊急時にIDからアナムネーゼが引き出せます。

本能寺で「我が死屍の始末」を付けた信長のように病気の始末もアナムネーゼ取りから始まります。しかしネパールでは居住地で病気を決めてしまう事がよくあります。検査が出来ないのでしかたなく居住地を参考にして病気を診断しようというのかもしれませんが、アナムネーゼから現状分析、そして治療へと、近代医学はこの国に必要です。

結核と桜餅

 

 こちらもだんだん暖かくなり、あちこちの垣根に小さな黄色い花が咲きはじめました。仕事の方ですが、病理を勉強したいという若い歯科医が現れました。アヌロダスニールという女医さんです。診療の合間を縫って病理の部屋にきています。

 先ずは炎症所見から腫瘍へと標本観察が進んでいた頃、彼女の患者の口腔潰瘍の標本が出てきました。彼女が勉強したばかりのラングハンス型巨細胞、きれいに核が並んでいます。

「結核ですか、ドクターユウジ、抜歯した後の潰瘍が治らないのです。早速胸部写真をとってみます。」

数日後、レントゲンのドクターハリハーがいきなり玄関で握手を求めてきました。

「あんな粟粒結核初めてです。ほら先生が結核と診断した口腔潰瘍の患者、すごい影でしたよ。」

ちょうどアヌロダの上司、ドクターコックスが休暇中で、アヌロダは誰にも相談できず一人で奮戦し、早速ティミの国立結核療養所へ患者を送りました。

 鼻くそのような小さな組織からその人の全身の病気を推理する外科病理学(通称 HANAKUSOLOGY )に、彼女は今燃えています。

 ところで日本の結核の療養所はどこでも桜がきれいという印象が残っていますが、知珂子が階下に住むイギリス人リンとのお料理教室で桜餅を作りました。日本では桜のつぼみが膨らみはじめているという三月三日付けのお便りを戴いていたので今ごろは何分咲きぐらいかな、と考えながらという事です。餡はこちらの材料で作れましたが道明寺粉と桜の葉は日本からのものを使いました。近くに住む国際協力事業団(JICA)の所長さん、次長さんの家にも少しづつ春の香りをお届けしました。

「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。黙示二章一七節」

キラの大腿の腫瘍

 

 カナダから外科のジョー・スレードン先生が七週間パタン病院の手伝いに来て下さいました。奥様のジルは知珂子と一緒に病室訪問です。ジルは最初、「私はネパール語も日本語も分からないので、」と不安そうでしたが、知珂子の英語もかなり上達して来ましたので大丈夫です。

 このジョーが病理に突然現れて、「ユウジが診断した三才の女の子の足の腫瘍は本当に良性腫瘍ですか?神経芽腫という診断でしたが、外に考えられそうな腫瘍はありますか。超音波でも大腿部以外にはどこにも腫瘍はなさそうでしたので、足が原発でしょう。明日手術をしますが、悪性の可能性があるようでしたら足の切断も考えているのですが、どうでしょう。」

 この症例は一か月半前の腫瘍生検時での外科との討論で、「腫瘍は直径二十㌢、大きすぎてとれない、足を切るしかない。しかし、家族が反対しているので今のところ切断は出来ないでいる。病理診断が悪性なら説得が簡単にいくのだが.....」ということで手術は留保されていました。

 そして今回、小児腫瘍の外科医ジョーが来たところでもう一度検討症例に登りました。ジョーは手術前に病理の意見を求めに来たわけです。私の「神経芽腫か、線維組織球腫、どちらにしても細胞の顔つきは良性です。大きな腫瘍にも拘らず、壊死もなく、周囲の血管や神経の圧迫も少ないようですので、ゆっくりと大きくなっている良性腫瘍でしょう。大腿以外のどこにも転移の無い事からも良性と考えていいのではないでしょうか。」という説明にジョーは「レントゲン写真からは、とれるかとれないかはっきりしません。しかし何とか腫瘍切除の方向で努力しましょう。難しい手術になりそうです。」といって帰りかけました。私はジョーに「難しい手術になりそうですけど、とってあげて下さい。」とお願いしました。

 手術所見は薄い被膜に包まれた多嚢胞性の腫瘍で完全に切除できました。組織は神経上皮腫(末梢性神経芽腫)で細胞像に悪性所見はありませんが、この腫瘍は悪性の腫瘍として取り扱われています。しかし、最近の医学書に小さく「攻撃的な手術、放射線治療、化学療法がこの疾患の予後を変えるかどうか決定していない。」という文章がありましたが、これに挑戦する攻撃的な手術になってしまいました。キラの脚をしっかり見守らなければなりません。

 ジョーも奥様のジルも切除できた事を大喜びで報告してくれました。

「この国にタイミング良く神様がジョーを送って下さったのですね。」といったところ、ジルも「私もそう思っていところでした。」

 術後二日目、病室には可愛いキラが元気にしていました。

「脚、痛む?」

「今は全然痛くない。」

もちろん彼女には、診断一つで脚を切る事にもなり兼ねない病理医の悩みは分かりません。この国で女の子の脚を切る事は、生きていく事を難しくさせます。でもそばにいたお母さんの明るい笑顔に標本を見ていた時の苦悩は吹き飛びました。

 「この腫瘍は病理医に対して最も困難な診断的挑戦を示す腫瘍の一つである。」と教科書に記載されておりました。悩まされる腫瘍ではあったのでした。日本でもしばしば悩みましたが、悪性と良性の狭間で悩む病理医の為に祈りが必要です。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。伝道者の書 三章一一節」

水不足と妊娠反応

 

 夜勤のプラディプが部屋にやってきました。

「ドクター俺、病気。」

「どうした?、熱、それとも頭痛?」

 ネパールの人の病気の最初は発熱と頭痛が通例ですので、自然に口から出てくる質問をしました。

「頭痛い。水と間違って妊娠反応検査用の溶解液をのんでしまった。」

「何を飲んだって?」

「これ。」

 彼が示したのは三%ソディウムアザイド、妊娠反応アイコンテストの溶解液です。

 最近水不足が深刻になってきまして井戸を掘ったところまでは良かったのですが、出てきた水の水質検査の結果、アンモニア、鉄、カルシウムが多く、飲用には向きません。これを処理するためには六百万円程かかります。病院にはこんな大金はなく、水は使えない状態のままです。検査科も何とか節水しながら水不足に対処してきました。冷蔵庫には常に蒸留水が入っていますが、喉の渇いた彼らはこの蒸留水を一口失敬して飲もうという事になったようです。しかしその隣にあった妊娠反応用の溶液を間違って飲んでしまいました。

 更に悪い事にネパール人の水の飲み方が独特で、瓶に口を付けずに高いところから喉の奥に流し込むようにしてごくごく飲みます。味わう事はしません。従ってビスワが約五〇㏄、続いて飲んだプラディプは推定二〇㏄飲んでしまいました。二人とも頭ががんがん、仕事になりません。鉢巻を締めて何とか吐き出そうと懸命でした。

 内科病棟にマーク.ジンママン(ニューヨークからきている若い内科医)がいました。彼に相談したところ、彼はソディウムアザイドの致死量を見つけてくれました。約十六グラムで、二人の飲んだ量は致死量の十分の一。活性炭三〇グラムをソーダ水で飲ませて様子を見ました。二人とも口の回りを黒くし、机から床まで真っ黒にし、頭を抱えて大騒ぎ。窓口には採血を待つ患者数名の険しい目付き。検査をする技師が病気だから三十分待ってくれと説得に成功。二人の回復を待ちました。

 果たして小一時間、二人の頭痛はおさまってきました。しかしこのまま夜勤は無理です。ソーサンを呼んで頭痛のひどいビスワと夜勤を変わってもらいました。

 翌朝、事情を知った他の技師達から二人とも妊娠反応陽性になるよ、とからかわれていました。彼らは二人とも独身男性で、水不足がもたらしたとんだ珍事に終わって、不幸中の幸いでした。

一通の死亡通知

 

 地域健康開発計画のドクターディックからボンド先生が亡くなられたという知らせが回ってきました。ウォルターボンド、一九七〇年から一九八〇年までの十年間パタン病院の前身、シャンタバワン病院で病理の仕事をされていた先生です。パーキンソン病に悪性腫瘍が合併し、脳出血の後肺炎を起こし亡くなられたという事です。

 帰国後十三年も経っているわけですからお会いする事も、お話しする事もできなかったのですが、先生の病理報告書は完璧で微に入り細に渡り、気帳面な性格が現れていました。私の報告は長さにして五分の一、内容にしたら十分の一でしょうか、恥入るばかりです。彼がネパール入りされたのは五十才の頃でほぼ私と同じ年頃です。当時の標本の数は現在の十分の一ですが、病理の標本の作り方から検査室の検査の充実などいろいろな仕事に御尽力された方、このネパールの初代病理医ボンド先生の死は一九九四年四月十四日。

 不思議な事に二月から三月にかけて自動包埋機の調子がおかしく、パラフィンの容器が夜中に落ち、翌朝の部屋はパラフィンだらけで削り落とさなければなりませんでしたし、アルコールの瓶が落ちたときは仕事をしている人達をほろ酔い加減にしてしまったり。最もメチルアルコールですので飲んで酔うことはできませんが。電源が夜中に止まったり、トラブルが絶えませんでした。

 しかし、デンバーからきているメインテナンスのジムが「この機械は数少ないアメリカ産、日本の機械ばかりがいいとは限らないよ。これだってもう二十年も使っているんだ。なにしろボンド先生が持ってきた機械だからね。」といいながら修理をしてくれました。

 あまりに修理の回数が多いのと、修理の度にジム翁が同じ言葉を繰り返すので、すっかりこの機械がボンド先生の分身のように思えてきました。ネパール人の技師達は修理の度に「日本製を買おうよ」と、いう話になります。修理が出来なくなったらJOCSに連絡を入れようかな、と思っていたところ、四月後半から殆ど故障しなくなったばかりか、二つの篭をつけて今までの倍の仕事をしています。ジムが四月の終わりにアメリカへ帰ったことも関連しているのかなと考えていましたが、ボンド先生の死亡通知を見て全てが氷解しました。先生が苦しんでいた時に共に機械も苦しんでいたのでした。

二人のジョティ

 

 一週間のUMNの年次総会の期間中、ジョティという名の可愛い女の子の友達が出来ました。知珂子の担当していたお料理教室にお母さんと一緒に来ていた二才の女の子。来ていたといっても大きな食堂をかけずり回って奇声を上げ、お料理教室の邪魔をしていたのです。彼女と表へ出て裏庭をチェックしたり、駐車場のバスの運転手さんに挨拶し、屋根の上の猿とお話ししたり、短い時間でしたが、友達になるのには十分でした。彼女はアメリカからきている森林保護官のネパール人の養子で、総会へ通うバスも一緒だったのですっかり友達になり、楽しい時を過ごしました。

 もう一人のジョティも二才でした。彼女の腹膜の組織が病理に送られてきました。結腸の穿孔で入院してきたジョティです。組織は大量に結核菌のいる粟粒結核を示していました。すぐに小児科に連絡し、その夜から経管栄養の中に四種類の抗結核剤を入れて治療開始です。五日たってお腹の腫れは少し引きましたが、眠るばかりで口からは何も食べません。胸の写真も左下葉の結節陰影だけでなく、小さな粟粒陰影が両肺に散布されています。

 七日後、布に包まれた小さいジョティの脇でお母さんが一人うずくまり、泣いていました。あれだけ大量の結核菌にとりつかれていたらリファンピシンを始め四種類の抗結核剤も力が及ばなかったのでしょう。なぜもっと早く連れてこなかったのか、なぜ腸が破れるまでほって置いたのか、なぜ、なぜ。

「神が奪い取ろうとするとき、だれがそれをひきとめることができようか。ヨブ記九章一二節」

 今度、ジョティにあったら結核のジョティの分までいっぱい遊ぼうと考えています。

タンセン病院長からの手紙

 

 一九九四年から病理組織検査の診断料の値上げを行いました。二年間値上げをしていないにもかかわらず、公共料金は四〇%の上昇ですので、一四〇ルピーを二〇ルピーアップして一六〇ルピー(約三二〇円)にしました。

 ところがタンセンのリスト院長から、タンセン病院の九八%は貧しい農民で現金収入がない、一六〇ルピーは高い、一五〇ルピーにならないだろうか、という手紙がきました。

 確かに貧しい人々からお金を戴くのは難しい事です。しかし、病理標本作成のための試薬を貧しい国ネパールには安くしましょうという業者は一つもありません。日本と同じ値段です。日本製品は日本よりも逆に高くなります。自動車など税金は一七一%ですので百万円の日本車が二百七一万円です。病理診断料もこれ以上安いままでいるとネパールに病理医が現れるよりも先にネス湖のネッシーの方が先に出てきそうです。

 先ず病理医が生きていける体制を作らなければなりません。現在他の病理医のいる病院は外国からの献金で病理検査料を安くしていますが、全て外国に頼っているこの国の体質と同じではいつまでたっても自立が出来ないのではないでしょうか。日本も過去何十年と病理医の価値は診療報酬上、低くみられていましたが、やっと最近診断料が改訂され、一万二千五百円。ネパールの約四〇倍です。単純比較は出来ませんが、年々少しづつ値上げしていこうかな、と考えています。

チベット難民のタシ

 

 インドからの働き人が加わりました。彼はタシという名の検査技師で、インド生まれのチベット難民、ネパールに奥さんの親戚が沢山います。インドで病理組織標本作成の経験があり、とても良い標本を作ってきます。何か悪い点はないかといつも私の側にくっついています。ネパール語は話せませんが、ヒンディ語からネパール語は簡単らしく、徐々にネパール語を覚えています。英語はうまく、殆ど彼とは英語で話しています。

 彼は規則正しく、標本の出来る時間が一定しており、それに合わせてこちらの仕事をするという事にしてから、何と不思議な事に今までの二分の一の仕事量になりました。同じ機械、同じ染色液でこうも違うかと目を見張るばかりです。

 考えてみますと、ネパールは、イギリス、アメリカ指向で日本の技術に慣れていません。注意してもその場は直しますが、数日後には元通りでした。掃除をするカーストではない、と部屋も機械のまわりもきれいにしません。その点、チベット人は何でもする、日本人と同じカーストです。

 「貧しき心(マタイ五章三節)」が標本の美しさに現れる見本がタシです。彼には日本のミクロトームで更に美しい標本を作らせてあげたいものです。

 もう一人のインドからの助っ人はランジット。「おはようこざす」というへんな挨拶で朝、私の部屋に入って来ます。みんなからインド人という事で何となく差別されていますが、明るくユーモアのある好青年です。セブンスディアドベンチストのクリスチャンで仕事は遅いのですが、着実です。



<細菌室で感受性のチェック、技師のビシュワ と。

 二人と仲の良い私の秘書ルパックはゴルカ出身ですが、コンピュータの技術を私から何とか吸い取ろうと真剣です。ときどき友達を連れてきていじらせるのが玉に傷で、ある休み明け、いきな全てのソフトが最初の画面だけ出て先に進みません。ウイルス感染です。早速、ウイルスバスタースにお願いしたところウィルス発見、その名もリバティ、アメリカ生まれ。地域発展健康計画部からの感染という変わった感染経路でした。

 それ以来毎朝ウィルス退治のプログラムを走らせてから仕事に取りかかっています。

血液自動分析機

 

 日本で横須賀共済病院の方々からネパールで使ってくれという九四万円の大金をお預かりしました。早速パタン病院の検査科の技師長さんや技師達に聞いたところ、血液の自動分析機が欲しいという事でした。

 しかしカタログを取り寄せてみたところ、日本のトーアという会社のシスメックスF-八二〇で、ネパールにも二台ほど入っているF-八〇〇の改良版でネパールでは最も最新式。でも保守や、溶液の補給がスムースにいくというので、この機械に決めましたが値段が二百万円してしまいました。JOCSには当初の予算として計上してありませんし、私の病理の直接の機器ではありません。そして更に機械をもし入れる事が可能であったら早く入れたい、という気持ちから、「共に歩む会」に連絡しましたら、なんと百六万円を足して頂けるという事、びっくりしたり、感謝したりです。

 やっとの事で血液自動分析機が一九九五年一月十日に入る事になりました。九月二十日予定ですので約四月遅れです。日本では考えられない事ですが、日本の企業はお金が振り込まれているのを確認してから初めて機械の発送に取りかかるようです。ネパールを完全に信用していません。もっとも私達自身もかなり裏切られてきているので確認に確認をとる事はこの国で大切な事なのですが、何となく淋しい感じもします。しかしこの機会を通してネパールの会社との連絡、取引、銀行や税関との関係、輸入の仕方などが分かり、たいへん良い経験をしました。日本から直接送って頂けば早く且つスムースにいったのでしょうが、なるべくネパールの会社を使って保守の点でもネパールで出来るようになればと願って今回の方法を取ったのですが、何とかうまくいきそうです。

映画女優の火傷

 

 小さな子供達が次から次に火傷で入院してきます。ある子は首から下、またある子は顔と、重症例が後を断ちません。狭い部屋で圧力式の灯油のコンロを使って炊事をする生活様式と関係があるようです。着衣のサリーも火つきがよく危険です。

 ネパールで一番人気のあった映画女優ナビナ・シュレスタが九〇%以上の火傷でパタン病院に明け方やってきました。ご主人は陸軍のパイロットでご自分も手や胸に火傷を負っていたのですが、車を運転してきました。応急処置をしてから二人の若い医師が付きそって陸軍病院へ転送しましたが、あくる日亡くなりました。

 次の日の新聞ライジングネパールにパタン病院が診療拒否をし、たらい回しにしたような記事が出ました。ネパールの病院の中で余り落ち度のないパタン病院ですのでこんな記事になってしまったようですが、新院長モナ・ボンガースの最初の試練でした。早速、もう一つのメジャー新聞カトマンデュポストにライジングネパールの記事の訂正要求を出して反論しましたが、勿論訂正記事は出ません。

 我が病理にも別の訂正依頼の手紙がポカラの国際ネパール友好協会(INF:International Nepal Fellowship)の病院から届きました。「直腸の腫瘍の一部を送ったのだが、パタン病院の病理の報告で癌はないという。その患者の鼠径リンパ節をカトマンデュの私設検査センターに送ったところ、癌という報告だったので、もう一度見直して下さい。」という手紙です。見直しても癌はありません。癌診断の際の生検は小さな組織で調べますから、外科医が腫瘍の部位を取って来たつもりでも、腫瘍を取らずに周囲組織しか送られてこない事がしばしばあります。この例もそうだったのでしょう。しかし、外科医としては病理医の見逃しのほうを先に考えてしまい、病理の質まで問い始めます。同じ病院内あるいはネパール合同ミッション内の病院ですと、すぐに連絡が出来るのですが、郵便がほとんど宛てにならないネパールでは他の病院との連絡は簡単ではありません。

 ポカラのINFのドクターとは手紙のやりとりで新聞沙汰ではありませんでした。しかし、女優のナビナさんの方は実に気の毒で、ご主人の娘という人が目の前にいきなり現れ、ナビナと同じ年であるという事実を知らされたため、ショックを受けて自殺したのだ、という月刊誌の記事が検査室の中で回し読みされていました。自殺に追いやる条件の解決も必要ですが、子供達の火傷を負い易い環境を何とかしなければなりません。

イオンチャンネル

 

 細胞膜の多数のイオンチャンネルが細胞内外の電位差を生じさせます。七五という細胞膜の間の数マイクロボルトの電位差を測るのは容易ではありません。その微小電流を計測する方法を開発したドイツのネーアーとザクマン博士が一九九一年のノーベル医学生理学賞を手にしました。

 この細胞の情報伝達機構が壊れると病気になるわけで、どこの細胞のチャンネルが破壊されたかを探りあてなければなりません。

 ドネーションがあると増築していく方式ですので増築増築で網の目のようになったパタン病院のチャンネルも正常に機能させるのは非常に難しいことです。建物のチヤンネルは憶えればなんとかなりますが、診療上の機能的な網の目をほどくのは簡単ではありません。IDの統一化からコンピューターの導入が望まれますが、まず検査データから始め、徐々に外来、病棟と病院のチャンネル形成をして行こうと考えています。

長生き

 

厚生省は一九九二年五月一九日日本人の一九九〇年の平均寿命を発表。男は七五、九二歳、女は八一、九〇歳でどちらも世界でトップ何とかして一日でも延命させようと言う努力をしている医療従事者としては快い数字です。とかく医療過誤とか乱疹乱療とか騒がれている医療ですが、全体としてみたこの数字は正しい評価として歓迎できそうです。戦争や飢餓のない政治的背景も大いに関連するでしょうが、最高の医療を全ての病院が目指している日本の医療の質を証明しています。さらに貧しい人も金持ちも同じ質の医療を受ける事ができるのは素晴らしい事です。

 ちなみにネパールの平均寿命は、男五三才、女五一才です。日本とネパールとでは保険制度も異なり、日本の健康保険では所得の多い人がより多く払っているわけで、ネパールのように保険皆無といっていい国では、金持ちも貧乏人も同じ金額であり、逆に貧しい人にとって過酷な医療といえそうです。患者の懐具合を探りながら、胸部写真はやめにしようとか、安い薬にしよう、等と若い医者に考えさせるのは本当にかわいそうです。ネパールでは貧しい人は胸の写真もとってもらえない、効く薬も使ってもらえない、お金がないのは死を意味しています。

日本は世界一に甘えられません。アジアの同胞は飢えと病気に悩み続けています。飛行機で五、六時間の距離に何億という人達が日本に向けて手を差し延べています。欧米から学んだ知識や技術を死海のように日本に貯めこむべきではありません。平均寿命の伸びた分、隣国に何とか還元すべきではないでしょうか。

インセクトパンセ

 

 強烈な反ダーウィニスト池田清彦はその著書「昆虫のパンセ」の中で、生物間の不連続性ばかりが目立ち同一性が非常に少ないことから、多様性から同一性への転化が目的の進化論を攻撃しています。

現代の病気もますます多様化してきて、病気はデータの隙間に隠れます。昆虫が擬態するように、癌も時々擬態して。オルガンミミクリーです。肺胞の上を這う腺癌なども空気を保ったままの時にはX線写真に写りません。自分の姿を隠して読影者をあざ笑うかのように。

かみきりむしネキダリスバルバロイのバルバロイとは何を喋っているのかわからないという意味で、昆虫は喋ってくれませんが、病気も喋ってはくれません。喋らせなくてはなりません。

スカラベが糞を転がすように必死になってデータを転がして病気を見つけ、蜂がいも虫の急所を刺して的確に麻酔するように、我々も病気の急所攻撃を速やかに的確にしなければならないのです。

 しかしデータも、急所を刺す事の出来る検査機器も不足しているここネパールでは「神様、私に正しい智恵を御与え下さい。正しい診断をさせて下さい。」と祈る事しかできない事もしばしばです。顕微鏡の前で祈る日々が続きます。

十五才のエイズ

 

 タライでインドから帰ってきた十五歳の女の子がなくなりました。エイズです。ボンベイで働いていたらしいのですが、売春のカーストまでタライ地方にはあるらしく、HIV(ヒトエイズウィルス)陽性者がどのくらいいるか見当が尽きません。

 私達もパタン病院の血液バンクでは献血者のHIV検査を行い、HIV陽性血を輸血しないように出来る限りの努力を払っています。HIV陽性血は極々稀ですが、HIVと同時にB型、C型肝炎のチェックも始めました。肝炎はB、C両方で約三%の陽性率で、陽性血液は廃棄処分にしています。十年後二十年後の事を考えるとお金がかかっても、今しなければならない事でしょう。

 一九九三年にはネパール全国で二百例ぐらいの陽性者でした。パタン病院では二千検体測定しましたが、陽性は五例です。全て性的交渉から感染しており、三名は死亡、二名は生存中です。

 インドとの交通が非常に頻繁である事から今後も検査の手抜きは出来ません。さらにこの国がエイズから守られるよう祈らなければなりません。

インドのペスト

 

 インドのペストも、最もインドとの交流の多いこの国でかなりの問題になりました。お金持ちの日本人の間ではテトラサイクリンの買い占め、予防的服用、マスクの常時着用が子供達にまで行われるという異常事態になりました。これはきちんとた情報が得られなかったからだと思いますが、頼りの新聞が恐怖感をあおる事ばかり書いていたのです。

 我が検査室ではいつ来ても検査できる体制を取っており、イギリスからきている検査技師アンドリュウも「何せ、ヨーロッパに蔓延したのは一8世紀だから」と、言いつつも日本やアメリカよりは経験豊富という感じで何とも頼もしい限りです。

 薬剤師のジョは「一キロもテトラサイクリンをストックしたわ、」と万全の構えですし、院長のモナも緊急医師会議で、ドクター達への教育を済ませました。

 決め手は教会のロカヤさんで詩篇九一篇から「主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。」を引いて、ネズミで媒介されるペストも恐れる事はない、と説教されました。

ピンチ病理医

 

 休暇の間のピンチヒッターならぬ、ピンチ病理医の話が出てきました。PATHOLOGISTS OVERSEAS というアメリカの南部バプテスト系の団体がケニヤでのプロジェクトを終えて、どこか新しいフィールドを探していたところだったようです。一、二ヶ月の病理医のリクルートは簡単らしく、一年間のカバーも無理ではないようです。しかし問題は一年間に五、六人の病理医が来る事です。出来れば一人の病理医でカバーしていただければ引継もスムースに行くと考えています。

 それにしてもアメリカは一年に五百人もの病理専門医が生まれるという事です。日本の六十人とはまさしく、桁が違います。ドクターモナとも話したのですが、二、三年アメリカを離れると仕事がなくなってしまう、それまで築いた自分のテリトリーが他の病理医へ行ってしまう、などが発展途上国に来る事の出来ない理由のようです。別荘を持っている病理医は当たり前で、その上病理医の場合、別荘にまでプールがあるのが普通といいますからネパールまではかなり遠いのかも知れません。

血液自動分析機その後

 血液自動分析機購入の件については未だに入荷せず、責任者を促してもラチが開かず、どうやらトリブヴァン空港には日本から到着しているらしい様子、日本的なやり方では無くネパール方式に従って購入しようと決めた主人ですが、さすがに頭が重い事、ため息をつきつつ、ただひたすら忍の一字で耐えているようです。

 そのような中、十一月二三日に小宮俊作さんがコンニチワーと大きな声の日本語で久しぶりに訪問して下さり、JOCSからの預かり物、注射針の溶解器と、私達が娘(康子)に依頼した品物を運んで下さいました。聞けば時折出る腰痛と重なっていたようでたいへん申し訳なく、恐縮してしまいました。ワトソン氏の注文した注射針溶解器の方がスムースに迅速に入ってきてしまいました。

小宮さんとの再会は本当に嬉しいものでした。彼は今回は仕事ではなく、ネパール人の親友のお母さんの見舞いと私達の事を思い、又私達の必要に役立つために訪ネして下さったのでした。いつの日か一緒に、今は亡き伊藤邦幸医師が十二年間働かれた地、オカールドゥンガに参りましょうと約束をして又お帰りになりました。

ネパールで最初の大変簡単、そして安い、お産。

 

 パタン病院に新病棟がオープンしました。Birthing Centerという日本語では授産所とでもいうところでしょうか、ここは第二子以降の分娩を受け入れるところで近代的な雰囲気と技術と清潔を備えています。病院に入院すると入院費や何やらで千ルピー(二千円)以上かかってしまいます。ここは五百ルピー(千円)で赤ちゃんが産めます。オープンセレモニーには新厚生大臣も出席して、テープカットがなされました。パタン病院に勤務する者にとって喜びの一時であり、お茶とお菓子がふるまわれました。

 ところでこの厚生大臣は雄二と瓜二つと皆が騒ぐ程でありまして、院長のモナやビール事務長はどうしても写真を一緒に撮るべきだと興奮しておりました。皆様の希望に応じてもちろん撮りましたが、騒ぐほど似ているとは思えません。いつも知珂子と一緒に働いているジョイスも「全然似ていないわ、ユウジの方がとっても素敵、ハンサム」といってくれました。従ってこの次の家の昼食会のメンバーはジョイスに決まり。

 このジョイス、三五年前にアメリカからやってきた看護婦さんでアメリカよりもネパールの方が長くなってしまいました。息子さん家族もミッショナリーとしてUMNで働いています。

 この授産所、オーストラリアら来ていた看護婦ルス・ジュドの長年の夢だったようです。やっと開所式に漕ぎつけたのですが、この時ルスは既にオーストラリアへ帰ってしまっています。歯科の外来と機器の設備を整えたカナダからのカルロ・スオミラも自慢の西洋式トイレの座り心地を試す間もなく任期を終え、母国へ帰って行きました。なんとなく寂しい限りですが、これがUMNワーカーの宿命のようです。

病院の門の前の女の赤ちゃん

 

 冬が過ぎ去ろうというこの時期に風邪が大流行。小児病棟は四五ベットでは不足で、部屋から入院患者は廊下にはみ出し四ー五ベットが廊下での入院生活を送っています。この風邪のほとんどが発熱、咳、腹痛、そして下痢を伴っているようでとにかく満員です。

 ある寒い朝、パタン病院の前に生後一か月に満たない女の赤ちゃんが捨てられていました。パタン病院で手当を受けており、日増しに弱りきった体の回復を見ていますが、国の施設はいつまでたっても引き取りにやってきません。年間四、五件この様な事が起きており、パタン病院は頭を痛めています。この赤ちゃん名前はまだありません。小児病棟の三人部屋の片隅のゆりかごの中に寝ています。お母さんのおっぱいはありません。でも周囲の人達が篭をゆすったり、あやしたりして可愛がっています。それにしても病院の前に捨てるという事は育って欲しいという願いのあるお母さんの仕業です。

 女の子は捨てられ易いヒンズーの世界、何とか育ってほしいものです。

病理医の出現を夢見て

 

 ネパールの若い医者がなかなか病理に興味を持ってくれない、と悩んでいました。日本から来たワークキャンプのグループの中の一人が、病理医になりたいという希望を持つようになったと聞いてびっくりしました。信じられない事でした。これまで二年間、日本の病理医の事など考えもせず、ネパールで早く病理医が育ってくれないかとやきもきしていました。しかも、日本からきた旅行者に、病理医は日本でも少ないのです、と説明したところ、「日本にいればもっといい機械で短時間に沢山の標本の診断が出来、沢山お金が入るのなら、なぜネパールでしなければいけないのですか」という質問が出た事もありました。それには答えられなかったのですが、神様は遠い遠い先までお見通し、そして一つの国の事だけのことをを考えていらしゃいません。感激してしまいました。

 二五年前病理医になる事を決意した時も自分の考えで決めたようですが、実は神様がちゃんと道を備えて下さっていたのでした。日本の若い人達のために祈らねばなりません。

一九九四年の活動報告と一九九五年度の計画

 

 ネパール合同ミッションパタン病院(UMN)の病理医としてパタン病院、タンセン病院、アンピピパル病院、オカールドゥンカ病院の生検組織、手術摘出組織の病理診断を行いました。UMNのみならず、国際ネパール友好協会(INF)のポカラにある二つの病院、ザレプローシーミッション(TLM)のアナンダバン病院、セブンスデイアドベンティストの病院でバネパにあるスリー記念病院、ドビガートの障害児肢体不自由児の病院、さらにダランにあるBPコイララ記念病院、各郡の地域病院、カトマンデュとパタンにある私立病院、診療所からも生検組織が送られて来ています。合計二六の病院診療所の標本を検査しました。

 それぞれ遠い地方から送られてきますので、平均二、五日で報告を出しました。染色はヘマトキシリンエオジン染色とパパニコロー染色が主体ですが、過ヨーソ酸シッフ(PAS)染色、結核菌染色、癩菌染色を時に追加しています。

 一年間で五千件の標本を検鏡しました。これは日本の千ベッド位の病院の病理件数に匹敵すると思います。病気の種類は胆石胆嚢炎が十七、二%、癌十、五%、虫垂炎が六、六%、子宮頚部及び内膜疾患六、二%、結核五、四%です。

 癌の中では胃癌が十四%、乳癌十三%、子宮頚癌九%、皮膚癌八%、胆嚢癌七%、肺癌六%と日本と比較すると子宮頚癌と胆嚢癌が多い傾向です。

 条虫(真田虫)の筋肉内嚢胞形成が十例ありましたが、CTスキャンの数の不足から検索が充分に出来ず、脳内病巣形成のデータは出せません。

 一九九五年度は基本的には一九九四年度と同じ仕事ですが、新たに始めたい事が二つあります。一つはトリヴバン大学教育病院に働きかけて病理医卒後教育を始めていただくこと、第二は免疫組織化学染色を始める事です。

 前者に関しては今年度もトリヴバン大学教育病院のハリーゴビンダ・シュレスタ教授と何回か話をしており、彼は新しい共産党政権に期待しているようですが検討すべき点が多く、さらに煮つめていく予定です。

後者に関しては多少お金をかける事で何とかなりますが、検査技師達の教育もしなくてはなりません。

第一回のネパール臨床病理学会

 

 一九九五年二月十六日から三日間第一回のネパール臨床病理学会が開かれました。ネパールには三十六人の臨床病理医がいます。しかしこれには生化学、血液学、寄生虫学、細菌学者達も含まれています。

 パタン病院の検査室から七題の演題を出しました。演題は全部で三八題、しかし、当日キャンセルが七題あり、突然の追加が二題ほどですので、差引三三題、結局二一%がパタン病院からの演題でした。日本の学会と違って座長まで時間を守らず、演者は長々と欧米の研究を紹介したり、機械の紹介だったり、大変です。何が研究した成果なのか判らずに最後まで来てしまいます。症例研究も推計学的な比較はいっさい無く、ただ%のみを比較して多い少ないの議論で、先が思いやられる事甚だし、です。オーバーヘッドプロジェクターもフルに活躍するのですが、手書きの原稿は読む事は出来ないほど汚く、手でこすって字が消えている物、顕微鏡写真の露出オーバーで真っ白な写真、そこにきてオーバーヘッドプロジェクターを長時間使いすぎると、ぷっつんと切れてしまいます。楽しい学会でした。

 初めての学会のせいか、いつもは口数のやたらと多いネパールのドクター達もおとなしいスタートでした。しかたなく日本の学会を思い出しながら、何とか会議をもり立てようとの気持ちもあり、質問を頻繁にしました。しかしさすがにパタン病院の若いシルー・チャリセ先生の発表やタシ・ダンドゥプ技師の発表の時はなかなか緊張しました。日本でもそうでしたが、ルーキーの発表を見守るのは楽ではありません。自分の発表の方が数倍楽です。会議ではインド、ネパール、バングラディシュアクセントの英語に耳を合わせていたせいか、最後のロバート・ワトソンの発表は何か音楽を聞いてるような錯覚に陥りました。まさしく、サウンドゥ、グーです。ロバートが終わり私達の演題七題全て好評(自己評価ですが)の内に終了しました。病理学会は偉い先生の学会だから、と躊躇していたロバートも既に来年の発表はあれにしよう、ともう考え始めています。シルー先生も四月から本格的に病理を始めたいと言っています。トリブヴァン大学教育病院の若い先生方もティータイムや昼食の時間に話にきてくれました。この学会の学術委員長のグルバアチーリヤ先生も私の所へやってきて「これから二ヶ月に一回位、定期的に学術委員会を開きますのでぜひ来て下さい。」とのことで、忙しくなりそうです。思い切って沢山の演題を出したのは正解だったようです。

 日本から東京医大の広田映五教授を特別講演者としておよびして「胃癌の前癌病変」という講演をしていただきました。スライドの中に新宿の景色が出てきたり、日本の会議で見慣れたスライドの数々に目を楽しませていただきました。また私が座長のセッションに倉辻先生のコパシヘルスセンターの乾式生化学検査システムの紹介の演題がありました。デブ・ナラヤン・バイデアさんの発表です。ユニーク且つ新しい方法でしたので質問コメントが沢山出ました。金曜の三時過ぎで聴衆は少なかったのですが、有意義なセッションだったと思います。尚、パタン病院からの演題は以下の七題です。()内は演者

1. Juvenile polyp of rectum (Kimula)

2. Squamous cell carcinoma arising from ovarian cyst (Chalise)

3. Signet ring cell carcinoma of gall bladder (Kimula)

4. Neuroepithelioma of thigh - a case report - (Rizal)

5. Histopathology of cysticercosis (Dondup)

6. Oral tuberculosis - a case report -(Sunil)

7. Increased Lab specimens in Patan hospital during 12 years(Watson)

パタン病院の水処理とジョン翁

 

 パタン病院の水不足はかなり深刻になってきました。検査室の水も朝の汲み置きで何とか凌いでいますが手術室まで汲み置きの水で手洗いをしているという状態で、術中の感染は必至、という段階にまで来てしまいました。というのも井戸は掘ったもののその水質がとても悪く処理のために当初七百万円もかかるという事で、何とかそのお金を出してくれるところがないか探していました。

 井戸を掘った日本の会社のニッサクさんが日本大使館へ外務省からくる小規模援助に応募してくれました。当初担当書記官氏は「通りそうです」ということでしたので、パタン病院としても大喜びでした。

 パタン病院には私達がきてから、大使館OBが一人、JICA関係の方五人、旅行者六人、ネパール在住日本人五人が入院され、日本人の患者さんが沢山お世話になっていました。日本人社会でのパタン病院の評価も上がっているので何とか援助が出るのではないかという淡い期待を持っていた訳です。

 しかし大詰めでパタン病院はすでによく出来上がっているので援助はいらない、という事らしく打ち切られてしまいました。

 そこでニッサクにお願いしないでインド製の機械で見積もりしたところ百九五万円で処理が出来るという事が判りました。そこで私達の今年のプロジェクト費の残りと来年度分をプラスして七〇万円この水処理に回して戴きました。

 パタン病院事務長補佐ジョン・ロリンスは日本大使館のお金が出ないという事を知ってから大変な落胆で、モナボンガース院長やロバート技師達に相談しながら「何とか早急に解決しないとパタン病院はおしまいだ、終わりだ。」という具合の織田信長になり、ネパール人の事務長ビル・バハドゥール・カワースさんは「神様のなさること、何とかなるでしょう。」と、家康的。結局、アメリカのサザンバプテストから一万一千ドル、長老派教会宣教会から六千ドル、そして日本のキリスト教海外医療協力会から七千ドル、合計二万四千ドルで十二分に充たされました。

 お茶の時間、「神様の計算が我々のそれよりも正確だっていう事をいつも知らされていたんだ、又今回もだよ。」とは、十五人もの孫のいるジョン翁の言。

タイマー盗難

 

 ナニマヤ技師が「ダクター(ドクターのネパールなまり)、血沈のタイマーが動かない。」といってやってきました。「つい二、三日前に電池を入れ換えたのに、どうしちゃったのだろう。」といいつつ裏蓋を取ったら、なんと電池がない!。

 ネパールの職場はどこでもそうですが、技師達の友達が自由に出入りします。いわゆる「家の者、アフノマンチェ」がおしゃべりをしていきます。おしゃべりだけならいいのですが、その辺にある機械をいじり、ペンとか小物を失敬していくのも稀ではありません。特に夜勤の時は技師一人で検査室にいるのは寂しいのかこのアフノマンチェを積極的に呼んでしまいます。なるべく仕事場には入れないように指導しているのですが、アフノマンチェ側にとっての「友だちの職場は自分の職場」という思い違いを拭う事は困難です。「あいつは誰だ、人の部屋に黙って入り込んで色々チェックして出ていく。挨拶もできない。あんな奴を入れてはいけない。」と叱りつけると、今度は技師が外へ出て行っておしゃべりをするようになってしまいます。

 しかし、誰だろう、タイマーを開けて電池だけを取っていった奴は?と考えながらデジのロッカーの前まできてハット気がつきました。「デジ・バハドゥール、あいつだ、又やったな。」たぶんデジの仕業です。去年の選挙の時、ラジオの電池を借りにきてそのまま返しに来ません。さすがに今度は借りに来る訳には行かずタイマーの電池を失敬したのだと思います。朝会った時に「お疲れさま、(タカーイマールヌス)」といってしまったのは失敗でした。今度は「タパーイマルヌス、(あなた死んで下さい)」にしようなどと考えながら次の日デジに問い正したら、やはり彼が犯人でした。ラジオの中から電池を取り出してそのまま戻さなかったのでした。

 一件落着か、と思ったのも束の間、翌日タイマーそのものがなくなってしまいました。

 バクタプールという古い街で、食料品屋さんの前に並んでいた桶からお砂糖をひとなめ、それも大きな舌で、ひとなめした牛がいました。お店の人がカンカンになってなめた牛を追い払っていたその光景を思い浮かべました。

 ま、しようがないか、今度はケイシオ(カシオのネパールなまり)のタイマーではなく、インド製のぜんまい時計を使おう、という事になりました。

パタン病院の巻、終了