原発はもういりません 木村雄二
東日本大震災後10年たった現在の浪江町の人口は825人です。(2020/1月1日)震災前は20,298人でした。4%の人々が帰還しました。そのうちの40%が毎月診療所を受診されます。高血圧、糖尿病、高脂血症、高尿酸血症などが主疾患です。夜間、休日は双葉郡、南相馬市、いわき市の休日診療所を利用していただいております。医師は常勤1名(小生)と非常勤4名で診療しています。悪性腫瘍症例は南相馬市、郡山市、いわき市、福島市、そして宮城県の病院を紹介しています。
2020年1月の浪江町の空間放射線量は0.3μSievertで、10年前の10分の1になりました。帰還した22人の子供たちの中に甲状腺癌の発生は認めておりません。しかしながら帰還者825人の内22例の悪性腫瘍が震災後に発症しました。日本全国の悪性腫瘍数と比べると有意に高い頻度です(P<0.01)。発見動機は自覚症状が90%で定期検査や健康診断が10%です。癌の種類は胃癌4例、前立腺癌4例、大腸癌4例、肺癌3例、食道癌2例、膀胱癌2例、肝細胞癌1例、十二指腸乳頭部癌1例、膵癌1例です。末期で発見された4例を除いて皆さん現在も癌と戦っています。
小さな町に2つの国保診療所など原発事故がなければいらなかった施設です。このまま働き続ければ続ける程、国費の浪費に繋がります。この町での私の任務は故馬場町長との約束だった診療所開設でした。診療所も軌道に乗りはじめ、開設から3年がたち、患者数も月400人の超え、そろそろおいとましようと考えております。
荒廃した農地や山林に多くの猪、穴熊、アライグマが棲息しています。さらにスズメバチの巣があちこちに作られ、アナフィラキシー患者も3年間に2名発症しました。町に帰還する予定で毎年墓参りをしていた人をスズメバチは襲いました。特に流された墓を別の墓地に作り直したため慣れない墓へ行く道で蜂に襲われた方々も診療所に来ました。休耕地にはブタクサが群生し、秋の気管支喘息を誘発しています。帰還した老人たちは慣れていない農機具での怪我、チェーンソーや電動草刈機での外傷です。
浪江町請戸の棚塩産業団地では水素製造プラントの建設工事が始まりました。水電解装置から供給される水素を圧縮、輸送用高圧容器に充填して一旦貯蔵し、需要に応じて供給先へ出荷する施設です。水素トレーラー1台で燃料電池車約50 台分の水素を輸送することができます。また、2018年 9 月から太陽光発電設備(ソーラーパネル)の設置を進めてきましたが、12 月末までに、第Ⅰ期工事35,420 枚のパネル設置を完了しました。2019年 3 月末までに第Ⅰ期工事分が完成し第Ⅱ期工事(発電量 10MW相当分)は 2020 年 3 月末に完成予定で、水素プラントと併せて試運転を行い、2020年7 月までに本格運用を開始します。
次世代の燃料は水素で水素自動車を、太陽光発電からの電気で電気自動車も動かせます。
浪江町で製造された水素は東京オリンピック・パラリンピックでの聖火台や聖火リレーのトーチに使われます。他県で行われている風力発電や地熱発電は浪江では試されていません。
帰還した町民の中にはハウスでの切花栽培が順調です。トルコキキョウや菊の栽培が目玉商品になり、海外への出荷が始まっています。
残念ながら台湾と韓国の福島県産品拒絶はまだ解決されていませんが、切花産業が突破口になるでしょう。
町の3教会は未だ閉ざされたままですが、教会の庭に咲くバラの花がキリスト者を健気に待っています。町の外に住む92%の浪江町民の40%は帰還するつもりはないようです。更に9人の医師たちも町の外で仕事を始められ、戻ることは無理なようです。幸い歯科医が一人頑張っておられます。こうした町を少しでも以前のような活気を取り戻すのには50年を要するでしょう。
川の鮎もまだ食べることはできません。放射能汚染された土地では野菜を作れません。口に入るものはコンビニか最近できたスーパーで購入しなければなりません。神様が食物として下さった緑の草もまだ食べることができません。創世記にはこう書かれていますが、浪江町では出来ません。「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命のあるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」(創世記1章30節)
これ程までに町民、動植物、自然を痛めつける原子力発電はもういりません。
チョルノーブィリの人口は10万人でしたが原発事故後30年で700人になりました。浪江町の将来も今の人口からすると20年後は同じくらいになるでしょうか。
「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイ6章10節)
(福島県浪江町国保浪江町診療所 医師)