一月の給料が二月半ばになっても銀行口座に入りません。調べてもらったところ、日本からニューヨークの銀行に行き、ニューヨークからネパール銀行、そしてそこからネパール地方銀行と転送され、その間に口座番号の転写ミスがあって又ニューヨークに送り返され、そうこうしている内に一か月半かかってやっと口座に辿り着きました。長旅をしたせいか、一%痩せてしまって。
ネパールでいちばん古いネパール銀行にはまだコンピューターがなく、手書き同様の小切手の上、回転式の数字記録器を使用していました。作業中に話しかけられると応対してしまうし、時としてくわえ煙草、お客さんはカウンターの中にどんどん入って行って顔見知りだと先に作業をし、挙げ句の果てに帳簿は閲覧式でお客さんまで引っ張りだこで覗き込む。こんな銀行には口座を開かんぞとばかり新しいコンピューターの入っている銀行に口座を開いてみたものの、なんと日本からの送金はこの古い銀行を通ってきてしまったのです。しかも転写ミスが自分の所で起きたのかニューヨークか判明するまで約二時間、寒い薄暗い廊下で待たされたのには閉口しました。
同じように待たされるのはいろいろあり、ボリ、ボリ(明日、明日)は最初に覚える言葉です。しかし教会の礼拝時間の始まりはきちんとしています。私たちは歩いて二〇分かかるサネパという小さな村の教会に行っています。始まりは十時半。賛美歌をたくさん歌って、たくさんお祈りをする教会です。入口も席も女性と男性が完全に分かれていて、コンクリートたたきの上に薄い絨毯がひいてあり、その上に座っての礼拝です。小高い丘の上に立っている家の教会で、小さな窓からカトマンドの町々が見おろせます。最初の礼拝は皆目分からなかったのですが、三ヶ月後には賛美歌も何とかついていく事が出来、説教も分かるようになってきました。
必死になって聞くと結構分かるものです。ネパールの教会に出席していて恵まれるのか将来が不安でした。しかし神様は飢え乾いた魂には雨を注いで下さいます。決して乏しい事はないのです。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。詩篇二三篇一節」
三人とも体重減少、かなりスリムになって、疲れに疲れてビリッジステイから帰ってきて鍵を開けたところに、アナンダバンハンセン病院の宮崎伸子さんがひょっこり現れました。クルナの石田先生からのおみやげです、と日本の酢五本も持ってきてくださったのです。
そして二日後の四月一九日にクプンドールに引っ越しました。二階建ての一戸建て新築で、一階にはイングランドからきている語学研修仲間のグレクソン一家が住み、二階が私達の住まいです。例のレイチェルとハンナの家族です。いままでの狭いゲストハウス住まいから解放されるし、ネパール語の先生もこの家で教えてくれます。大家さんとの約束していた電話がまだ引けない状態ですがまた例によって神様が何らかの手を打って下さる事を信じています。現在引っ越しの後かたづけで忙しくしていますが、落ち着いたら小鳥を飼おうかと思っています。窓からは野鳥の巣が見えます。なんと一本の木に二十ぐらいの大きな靴下を下げたような巣で下の方に小さな入り口があって五十匹近い鳥が住んでいます。そのほかおしゃべり鳥、グレーのネックがシックなミヤマカラス、かわせみの一種で頚はベージュ、羽根は青、お腹が白くて嘴はオレンジ色の素晴らしくおしゃれなキングフィッシャーなどネパールは野鳥の宝庫です。恒太郎の部屋からは蛍の飛んでいるのが見えます。蛙の声も結構うるさく聞こえます。
日曜日の夕方の事、ゲストハウスの五人の子供達の誕生日パーティからの帰りに急に降り出した雹まじりの大雨に見舞われ、広い道は泥水の川と化し、恒太郎は胸まで水に浸かりました。停電もこのところしょっちゅうです。水不足で電気がなかったと思ったら今度は雷で停電、雹で停電。ネパール南部の野菜の産地タライ地方では一キロもある雹が降り、マンゴーの木に相当の被害があったという事です。横殴りの雨はガラス窓を直撃して部屋の中まで入ってきました。停電で暗がりの中、雑巾とバケツで三人とも大奮闘でした。新築の家ですがキッチンのシンクは水漏れ、電気がきていないコンセント、どうやっても閉まらない窓、閉まっている窓から入ってくる雨、ベランダの扉は蚊と蝿がラインダンスをしながら入れる隙間があります。新しく買った椅子は足の長さが同じものはなく、カタカタカタカタの音つき。考えられない事が起こるのがネパール、なんて悟る事が出きるようになってきました。
五月一五日、若井先生が沢山のおみやげを運んでくださいました。そろそろ持ってきた日本食がなくなる頃で、ここでも神様のタイミングに驚かされました。ポッキーは恒太郎にとって最高のプレゼントでした。いろいろな時にいろいろな所で助けられています。「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう。」と、いつも言いますように。(詩篇七〇篇四節)」
ネパールに来る際、沢山持ってきたはずの折り紙がなかなかの人気で瞬く間になくなってしまいました。再び奈良の康子に依頼、折り紙とついでに折り紙の本も送ってもらいました。康子は本屋さんできっと何冊もあるなかからじっくりと選んでくれたものと思います。内容の濃い本が送られてきました。それを充分有効に使ったのが恒太郎です。ゲストハウスの大家さんはバイデヤさんといいますが、その一人娘、サプナさんがインドのハイスクールから春休みで帰ってきていました。サプナはネパール語で夢という意味ですが、まず彼女を驚かせました。次に誕生日を迎えた小さいな仲間達に男の子には恐竜、女の子にはハンドバックに人参をいっぱい持った兎を折るなどと、折り紙を使った手の込んだバースディカードを作りました。みんなから日本語で「オリガミ」「オリガミ」と責めたてられています。
カトマンドでは折り紙は手に入らず、大切に大切に使っています。この折り紙はビレッジステイ先でも活躍しました。そして極めつけはリンのバースディパーティでイングランドから来ているカトマンド大学のコンピュータープログラミングの先生、ジョンの小さな目を大きくしてしまいました。火山が爆発したのです。一枚の折り紙で。
最初の折り紙をつくってから、ジョンの長女レイチェルは日本製の品物を発見する事に努力をするようになりました。冷蔵庫から鉛筆まできれいで性能のいいものは全て日本製です。でも残念ながらイギリス製品がわが家にはありません。困っていたところ引っ越し荷物の中から出てきました、メイドインイングランド。バトミントンの羽根、シャトルコックです。身近にあったイギリスです。早速レイチェルに見せたところ大喜び。ダディのジョン、「ようし、シャトルコックを沢山日本に売って、折り紙をたくさん買おう」
ネパールの春が瞬時に過ぎ去ってしまった後に、肌が焦げてしまいそうな真昼の太陽がじりじりと照り始めました。しかし、朝夕の冷え込みはまだまだ厳しく、寒暖の差が激しい四月です。
その頃ネパールでは極度の水と電気不足、それに加えて食料品の値上がりのため、ストライキが度々行われました。軽いストライキはタクシーのみで一日から三日間のストップ。鉄道が皆無のネパールでは大衆の足はトロリーバスとバス、タクシー、テンプー(インド製の三輪車で昔のミゼットと同じ)です。プライベートカーのない者に取っては大変困りもので、大きなストライキは全ての交通機関ストップ、全ての店が閉まります。これは三月一四日でした。ストライキ前日にネパール語の教師達から、当日は絶対に表には出ないようにと顔色を変えたきつい忠告を受けました。デモがあったり、危害を加えられたりする事があるからでしょう。
貧富の差の激しいネパール、これはどうしようもないとしても富める者の家では毎日出勤の庭師を雇い、軽く五百はある植木鉢を管理させています。市から供給される水は夜遅く細い管からちょろちょろと地下の水タンクに貯められ、翌日それを利用します。私たちが住んでいるこのゲストハウス、これはUMNが借りているものですが大家さんとは建物続きで、一つのタンクで四家族が生活しています。しかし、生活用水に不足していても花のためにはなんと二時間も水を汲み上げては植木鉢に水やりです。勿論井戸がありますが、これは鉄分が強すぎて生活用水には使用不能です。この井戸水と大切な水をタンクから汲み上げては撒く事に、顔も洗えずシャワーも使えないという各国から来ている仲間達と共に歯がゆい思いをしながら見つめていました。
水タンクもない生活をしているネパール人のほうが沢山います。富める者に対する抗議であるデモも無理もないでしょう。水一つとってもその使用の意識改革だけは絶対に必要であると思います。三月二九日から三日間ストが続き学校も休み、外出は徒歩か自転車です。 タクシーのストライキは約九%アップで解決しました。 「天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。ヤコブ 五章一八節」
雨のない時のカトマンドゥはこの御言葉だけが頼りです。
五月始めまで顕微鏡は空港の税関にストップしたままで病院に運ばれてきていませんでした。顕微鏡の置き場所がなかったために丁度良かったのですが、雨期になる前に取ってこれればいけないな、などと考えはもうすっかりネパールタイムに漬かってしまっていました。しかし何となく雲行きがおかしく、今年は雨期が早く来そうだ、なんて噂を聞いて心配していたのですが、やっと税関からの連絡があり、五月十一日に引き出せる事になりました。顕微鏡がカトマンドに到着してから三ヶ月目です。火曜日で病院も休みではありません。こいつは塩梅がいい、などと考えながらヘッドクォーターに行ったところ、中央サービス部のブラッデキャ氏がニコニコしながら「先生、今日はビダ、お休みです。今朝急に決まったお休みです。王様がインドから帰ってくる日だから。」「昨日は分からなかったの?」「分からなかったんです。ボリ、明日又来て下さい。」
これがネパールか、等と考えながら、これ以上の抵抗はやめて、メイル室に手紙がきていないかを見に行きました。手紙は来ていません。今日は何にもせずに一日暮れそうだ、と思いながら、いつもあまり良い情報のないメイル室の情報交換壁に目をやりました。なんと壁のど真ん中に”カイネティックホンダ、売ります、”の記事。シアトルに帰るジムのバイクです。早速地域開発部のジムのオフィスに直行。ジムは目を丸くして、「今、ピンナップしたばかりなんだぜ。」結局その場で、七百ドルで売買成立、「アメリカへ帰るので七百ドルの方がいいけど、三万五千ルピーでもいいよ、今月の終わりまでに。」と、ジム。銀行に行って七百ドル下ろしてくるか、と考えていたその四日後、まだジムにはお金を払っていなかった五月一五日に総主事若井晋先生がクップンドールの家に来てくれました。先生にバイクでお金がかかる事、顕微鏡の引き出しに税金が付いた事をお話ししたら「その両方の分、九百ドルを払いましょう。でも今ここには七百ドルしかないので後の残りは日本に帰ってから送ります。」 こんなに七百ドルという数字が何度も出てきたのは不思議と行ってもいいでしょう。結局バイクをプレゼントして戴いたわけです。しかも横須賀で乗っていたフリーウエイと同じ形、約半分の排気量。感謝です。
住環境はといえば、水の問題を除いては快適といっていいようです。この問題の水設備、まずポンプ室のパイプに空気が入り込み、そのパイプ内の空気を水を注入する事で取り除き、パイプを閉め直し、屋上のタンクに水を送り込む電気を入れて、三〇分タイマーを掛け、その後時間がきたら電気を切る、これを日に二度(朝夕)このパイプも何度かの修理の後やっとここまで漕ぎつけた物で、これを習慣化しつつあると思っていた矢先今度は貯蔵用水タンクに問題が生じ、大事な水はすっかり底をつく始末。炊事に洗濯にトイレにと不便を来たし、飲料水を自転車二台で買い出しに出かけるという状態。知恵を絞りながら水の使い方に疲れ、ほとほと気の落ち着く暇もありません。
UMNから急遽水の供給をうけ一時は凌いだのですが、次の日もその次の日も水がきません。またまた大家さんに連絡をする傍らベランダの日除けのカラフルなパラソルの真ん中に穴を開け、逆さまにして雨水をタンクに集めようというハイドロプロジェクトです。このパラソル、スーパーで結構高かったのですが、(千八百ルピー:四千円位)暑い夏の夕方パラソルの下でアイスコーヒーぐらい飲みたいな、等と考えながら、どうせ買うならいちばん派手なカラフルなパラソルをと思い切って買った代物です。ということでアイディアは良かったのですが、雨の方が期待するほど降ってくれません。晴れているのに逆さまにしてタンクの上に置いておくのは使い方が全く違うようで、やはりたたんで置くのですが、肝心の雨の時に出すのが遅かったり、気がついて出した時はもう小降りになったり、うまくいかないものです。
しかし神様は我らの味方です。隣の家のおじさん、チャクラさんを動かして下さいました。水道局の元栓を管理している役人さんに話しをつけてくれたようで、例によって早朝六時半にパラソルを広げようか、たたもうか思案していた私達に突然、「今日七時に水が来ますよ」と教えてくれました。その通り、六時五十分には水が出てきました。水の栓を管理している人がいて我々の家に来る栓を閉めたままにしてしまったらしいのです。事は簡単、チヤクラさんが連絡してくれたらしく、栓が開かれ水が来ました。やはりパラソルはカラフルな方がいいようです。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。ローマ八章三一節」
向かいの飼い犬、ポピー(雄犬)がわが家をすっかり気に入り、一日中玄関前に寝そべるようになり、わが家を訪れる怪しい人々(ネパール語の先生と牛乳屋さん)にかみつく始末。向かいの家の飼い主がいくら呼んでも帰らず、何となく気まずくなり周囲とのコミュニケーションの事が気がかりになり始めた頃ふと、いなくなり、お腹がすくと又ひょっこりあらわれるという風です。だからといって、すぐに食べ物をあげる訳にはいかないようで、「放し飼いはこうゆう事がおきるんだなぁ。」というのが実感。これまで向かいの屋上で一日ゆったり寝そべっていたポピーの姿がこのところ見えなくなり寂しい思いをしているのは向かいの家族だけではなく、私たちも又悩みの中にあります。
しかし彼の鼻は賢く、肉の料理の時には必ずといっていいほど玄関前に待機しています。おすそ分けが済むとスタスタ家に戻るのです。犬はかなりの智恵を働かせて生きています。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。レビ記一九章一八節」
六月がネパールでいちばんいい気候かも知れません。本格的な夏まではいきませんが、午前中はさわやかな時をもつ事ができます。しかし、日中はカンカン照り、夕方から雷が鳴り出し、時として激しい雨に襲われます。夜も結構暑く、十時過ぎないと涼しい風が入ってきません。まだ本格的な雨期ではないようですが、雨量は増しています。一日おきの蝋燭生活は続いていますが、水も電気も適当に来ています。停電も冬より短縮されています。庭に植えたトウモロコシやいんげんが勢いよく育っていますが、雑草の方も勢いがいいので手抜きが出来ません。
五月一五日に総主事若井晋先生がクップンドールの家に来てくれました。英語とネパール語の中にどっぷり漬かっていた生活でしたので日本語でおもいっきり話してしまって先生を疲れさせてしまいました。 六月一二日には小原先生、坂口さん、宮崎伸子さんが訪ねて下さり、ご一緒に昼食を取りました。年次総会での英語の一週間から一気に日本語の世界に突入しました。本当に楽しい時を持つ事が出来ました。いろいろ日本の食べ物をおみやげにいただき、またまた感謝です。特にジャイアントポッキーは格別でした。
ダサインの間、病院も閉まる日が多くなり、手術も少なくなります。病理もちょっと暇になりますので、ネパールにきて初めて一週間の休暇を取り、カトマンドを離れ、カリンチョックへトレッキングに出かけました。日本で知り合ったネパール人ベンパタモン家の人々がカリドゥンガに新しいペンションを建てました。日本にいた頃から建てる計画は聞いていましたが、そこの第一号の客になった訳です。カトマンドから車で四時間のカリドゥンガ、そこから登り八時間で海抜三千八百一〇メートルのカリンチョックに辿りつきました。カリンチョックには三軒のシェルパの家族が生活していました。勿論、電気もガスも水道もない生活、学校まで三時間という山奥です。私達はテントに寝ましたが、「十三夜、テントを叩く、山の風」で、しばし寝つかれません。翌日はカリンチョックからの雄大なヒマラヤを思う存分眺めてきました。山を下りながら伊藤邦幸先生のオカールドゥンガでの山々を渡り歩く診療の生活を考えていました。こんな山の中であの素晴らしい短歌が創られるのか、と思いながら。それでは私も、と考えたのですが、素養とか材料が大いに不足している事にすぐに気がつきました。トライするだけ無駄ですのでせいぜい雲間に見えかくれするヒマラヤを楽しみました。
カリンチョクからチャリコットに下りて来ましたが、満員のバスには乗れないためトラックの荷台に相乗りです。ダサインの特別大きな真っ赤なティカを額につけたおじさんや、一番きれいな服を来て親戚回りに行くおじいちゃんと一緒でした。山あいのきれいな空気の中を、風を切って走るトラックの荷台は爽快そのものでした。
最後はスンコシ川でのラフティングでした。雨期はとっくに終わっていましたので流れは急ではありませんでしたが、適当にしぶきも飛んできますし、スリルも味合いました。川原のテントで一晩、柔らかい砂の上の寝心地は最高でしたが、十五夜の月明かりがトイレの邪魔ではありました。
シェルパさんたちが同行してくれた、ちょっぴり贅沢なトレッキングを終了しました。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは天地を造られた主から来る。(詩篇一二一篇一、二節)」
病院勤務も始まりネパール合同ミッション(UMN)の事務所(ここを私達はヘッドクォーターと呼んでいます)にもなかなか足を運べなくなりました。ネパール語も一週間に五時間、半年間の続行が必要であり、大変多忙です。電話がすでに入っているという事で入居したアパートにはいつになっても電話が入らず、約束してくれたアパートの大家さんは私たちが入居した日、家具を運びこんでいる間に鍵を渡すやいなやそそくさと姿を消し、大事な話をしないまま、二ヶ月半も姿を見せない有り様。その間電話の事、水ポンプのさまざまな故障で、UMNを通して矢の催促、やっと姿を現した大家さんと話をすれば、賄賂を払えばすぐにも電話が入るとの事でした。UMNの姿勢として、このようなやり方での電話取付はネパールのために決して良い結果を生み出さないため、賄賂は使わないというのが基本方針です。
しかし、現実はなかなか厳しく、日参しなければ五年から二五年かかってしまうという、報告もあります。パタン病院からも催促をしてもらい、大家さんが木村ドクターからも手紙を書いて下さると早くなる、ということでしたので徹夜してネパール語で電信事務所に手紙を書きました。翌日大家さんに直してもらおうと差し出したところ、間違いもあった方が日本人の手紙のようでかえって良いと全然訂正せずに持って行きました。
FAXは、UMNのヘッドクゥオーターに届き、そこから病院に車で運ばれ、私のオフィスまできます。日本からネパールまで一分で届くFAXがUMNからパタン病院までが最短一日、最長三日かかります。何ともスピードアップは難しい国です。
JOCS新旧両総主事とボランティアカメラマンの鷹見安浩兄の訪ネパールは待ちに待った事でもあり、とても嬉しく有意義な時となりました。わが家の訪問、パタン病院におけるドクターユージの職場、病理を二日間にわたる念入り視察、UMNの会議に出席されるなど忙しい日程でした。
院内ではスニータ(知珂子)の二個所の仕事部屋(ライブラリーとビジター室)も視ていただきました。三〇余年前から岩村昇先生と共に同じ頃より働いてこられたルスピーターソン婦人ともこの部屋で歓談し、祈りの時を持つ事が出来ました。
現在の職場の状況や未来の展望等、深い話し合いが出来たようで検討の余地を充分残しながらもやはり直に祈り合い、話し合う事の素晴らしさを実感した事でした。ネパール第一号の電子顕微鏡を、との思いに全く変わりはありませんが、JOCSの方針もあり、どういう風に、また何年後になるかも今は皆目、ただ神様の御手に委ねるのみです。
堀江清三郎さんが「使いますか、これ、」と手渡して下さったフイルム、日本で使っていたベルビア。感激でした。トレッキングを終え浅黒く健康的に日焼けした堀江さんは歩む会からの荷物を届けて下さいました。ちょうど鳥羽季義先生もおみえでしたのでネパールの山々、村に住むネパールの人々の話をたくさん聞くチャンスを与えられました。
日本への一時帰国を前にして鳥羽季義先生は新約聖書のカリン語への翻訳がほぼ終わったところでした。先生のお話を聞きながら気がついたのですが、私達の住むカトマンドはネパールでは都会で私達はあまり田舎の方へ行ってなかったのです。ネパールから帰ってきた人の話を日本で聞いてるような変な錯覚に陥っていました。ようし来年はベルビアを持ってタトパニあたりまでトレッキングに行き、思い切りラリグラス(しゃくなげ、ネパールの国花)を堪能するぞ、という意気込みが出てきました。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。詩篇一九章一節」 ところでネパールの人は写真をとってもらうのが大好きです。写真をとると「ありがと」、といい、次の日には早くも「昨日の写真はできましたか、」と聞かれます。「写真屋じゃねぇ、」といいたいところを我慢して写真屋さんに出しに行きます。そして出来た写真を覗き見していた人が、「あっ、私も写ってる、」といって後ろの方のベンチに座っている小さな人物を指さします。仕方なくもう一度写真屋さんへ注文です。
雄二は既にモーターバイク通勤ですが、一月一四日に知珂子にもモーターバイクが与えられたました。ハジャージ(インドのバイク会社)とカワサキの協力製品で五〇㏄、サニーという名前のバイクです。 これは所沢キリスト教会の会員(歩む会の会員です)木下兄姉が私たちの二台の自転車盗難に心を痛められ、また兄姉は三年前にネパールに来られた事もある事から身近に感じていますとの文面と共に二百ドルを自転車再購入のためにと下さった訳なのです。所沢キリスト教会稲尾三活先生が十二月に訪ネパールの際お持ち下さいました。これに不足分を足しての購入です。
自転車ですとわが家からパタンまではずっとだらだらの登り坂で、これが結構きついため、モーターバイクが本当に欲しかったのです。少し早めの誕生日プレゼントといって雄二が買ってくれました。通勤時間の短縮、ゼイゼイいわずに職場に入る事が出来、精神的にも楽です。このところ知珂子は四回ほど胆石の痛みが出るなどしていた事もあり、雄二も心配していたのです。今は快適です。そして感謝に溢れています。どうぞ共に喜んで下さい。「私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛する全ての人の上に、恵みがありますように。エペソ六章二四節」
雨季に入ると毎日雷がゴロゴロと鳴り始めます。いや、こちらネパールではグデュングドゥンと鳴るようです。鶏はコケコッコーではなく、ククリーカ、犬もワンワンとは鳴かず、ハウンハウンです。それはともかく、去年のこの時期には頭の痛い問題だったパタン病院近くの主要道路で、雨季には大池と化すところ。病院への勤務の行き帰り、二人とも通過しなければなりません。排水工事らしき補修工事が半月ほど前に終わったようですが、果たしてどうでしょう。大きい凸凹穴にすでに水が溜まり始めているのを見て、やや不安なこの頃、そして雨季は目の前にきています。この道が去年のように大池にならないようにと祈る思いです。
ところで、おばかさんをネパール語で「頭がパンク」といいます。コンピュータでデータを探していたチャドゥは、探し方が判らなくなり、「コンピュータの空気が抜けた。」と言い出しました。「コンピュータを動かしている人の頭から空気が抜けたんだろ。」といいながら探してあげると、やはりコンピュータの空気は抜けていません。データはちゃんとありました。 さて悪路に耐えて走るバイクの方は一年間でパンクが九回、おかげでタイヤ交換は超ベテラン。それにしても凸凹道はもういりまっせん!。
イングランドから来たドクタークリーブは口癖のようにウエスタンではこうする、ウエスタンではああする、という具合にすぐにウエスタンを引っ張りだします。
「ウエスタンの私達はFAXやコンピュータを駆使して仕事をしていた。しかしIBMやマッキントッシュが無くても霊的な交わりの経験は出来る」と語った一九九四年のUMN年次総会のゲストスピーカーのミリアムはネパール事情に少々疎いようです。なぜならこの国で使われているFAXやコンピュータは日本や台湾製で、極東、ファーイーストからきている物が多くウェスタン製は殆どないのです。
日本製品は高くて手が出ません。そのかわり韓国、台湾、香港、シンガポール、インドネシアなど日本製品に近く、かつ安い製品が出始めています。 検査科で使っている試薬や機械も日本製品は少々高いのですが、故障が少なく、長持ちして結果としては安くなります。 日本製品が溢れているにもかかわらず、日本人技術者の数は他の国に比較すると少なく、トレッキングに来てお金を落としていくのが日本人、という考えが定着しつつあります。タクシー等も日本人を見ただけで三倍の料金をふっかけてきます。ネパール語で運転手さんを叱る事もしばしばです。「高くしたら観光客は来なくなるよ。そうしたら自分の首を絞める事になるわけじゃない?」しかし、カトマンドではインフレーションはここ二、三年ひどくなってきているのも事実です。
ネパールのウエスタンいわゆる東ネパールはネパールでも遅れた地域で、カトマンドゥで東から来た、というと文字も書けない学校も出ていないという事になってしまいます。UMNはこの東ネパールに識字教育、非形式教育(UNFORMAL EDUCATION)に力を入れています。しかしネパール全体の識字率はまだ二六%でウエスタンでは十%前後でしょう。