生命の誕生

哺乳類の赤ちゃんが、母親から別れて最初に行う仕事は、息を吸うことです。そして、その吸った息で肺を膨らませます。その次に膨らんだ肺から最初の息をはきだします。はき出された息と一緒に出てくる「オギャ」という声は、お母さんにとって最高の音楽になります。この最初の仕事は赤ちゃんにとって大変な重労働です。生まれたばかりの空気の入っていない肺に空気をとり入れなければなりません。先ず肺の細胞は生まれたらすぐに、一度に、しかも大量に、石鹸のような界面活性物質を肺胞内に放出して肺の表面張力を下げます。次に赤ちゃんの肺は、肋骨と肋骨の間にある肋間筋や横隔膜やほかの胸部の筋肉の働きと協調して、空気を吸うという作業を一瞬にして行ないます。生まれる前にしてはいけません。羊水を吸いこんで、溺死してしまいます。遅れても危険です。赤ちゃんは酸欠になってしまいますから。その前に息を吸わなければならないのです。

この貴重な瞬間、誰かが赤ちゃんに息を吹きこんでいるのではないか、と考えるのは私だけでしょうか。創世記で神様が土のちりで作ったアダムの鼻に、命の息を吹きいれられたように、きっとすべての赤ちゃんに神様が息を吹きいれているのでしょう。

ギリシャ語で肺を意味するプネウマ(πνευμα)という言葉は聖書の中にたくさん使われていますが、肺という意味ではなく、霊、風、息吹、息、生命力という意味で用いられています。神から与えられる霊、という時に使われ、それらの代表は主イエスのバプテスマの際に天から鳩のように降ったプネウマ(マルコ一章一0節)です。さらに私たちのプネウマ(霊)の父は神であるとヘブル人への手紙は語っています。(ヘブル一二章九節)やはり、神様が赤ちゃんの最初の仕事に手をかしているという私の考えは正しいようです。

逆に肺から霊が出ていくことを、ヘクプネウ(εκπνεω)といいます。離れてというヘク(εκ)と、息をする=息をはく、という言葉のプネウ(πνεω)が合体したものです。主イエスが声高く叫んでついに息をひきとられたという箇所(マルコ一五章三七節)で使われています。ギリシャ語の肺プネウマ(πνευμα)は外に霊を意味します。霊は英語でスピリット(spirit)。このスピリットをとり入れること”inspire”は息を吸うことです。息を吸い霊をとりこむことによって、体に酸素が送りこまれ、脳の働きが始まり、inspiration(インスピレーション:霊感)がひらめきます。インスピレーションは目には見えませんが生命を維持するためには必要不可欠です。

そして人生の最期「ん」の像はその息をはきだし静かに眠る時の姿でしょう。このspiritをはきだすこと expire は死を示します。

新約ギリシャ語辞典の著者、岩隈直氏の肺は結核菌によって破壊されましたが、残った小さな肺に神様からのプネウマを充分とりいれてギリシャ語辞書作成の仕事を成し就げました。それはあらゆる真理に導いてくれる真理のプネウマ(ヨハネ一六章一三節)が彼に息を吹き込まれたからできた仕事だったに違いありません。

藤堂明保氏は「肺という字は市(フツ)という生命の息吹を表す字に肉を付けたもの」と記しています。やはり生命の誕生は息をすることからはじまるのでしょう。東大寺南大門では二つの金剛力士像が、口を開いた像と閉じた像で私たちを倪んでいます。

「口をあけた像は生を示し、閉ざした像は死を意味しています。日本語の五0音の初めの『あ』と終わりの『ん』を叫んでいるのです。」と、奈良の観光バスのガイドさんは東大寺南大門の前で、淡々と説明してくれました。生命の息をとりこみ、そしてはきだす、これが人生かもしれません。さしずめ溜息は人生の一区切りなのでしょうか。

肺に始まり、肺に終わる人生、肺は生命の源だ、などというと多くの反論が出てくるでしょう。血液学者の中には「生命の源は血にある」とおっしゃる熱血漢が多そうです。出血多量で命を落とします。人の命は血にあると旧約聖書のレビ記の記者も語っていますし。(レビ記一七章一四節)でも肺からはいる酸素を運ぶのが血液の役目です。酸素の薄い高地では体内の赤血球の数を増量して体内に酸素を多く送らなければなりません。そのためにエリスロポイエチンという物質が必要です。血液中の酸素濃度を骨髄に伝える伝令です。肺気腫症や肺線維症のような肺障害がおきた状態でもエリスロポイエチンは増加します。熱血漢も肺の支配下にあるといっても過言ではないでしょう。もうひとつの反論が聞こえてきました。「生命の源は脳ですよ。人間は考える葦ですから。」ナーバスな神経学者です。確かに無脳児は生きていけません。「脳なし!」なんて言葉を使ったら殺人罪で訴えられます。脳がしばしばコンピュータに比較されるのは脳の神経細胞がいろいろな刺激に対してON、OFFのスイッチになったり、記憶装置(RAM,ROM)であったり、中央演算装置(CPU)だったりするからです。時々ディスプレィにもなりますよ。ほら美しい夢を見たり、思い出に耽ったりするでしょう。でも電源を入れなければ、そして電気がなければコンピュータも動きません。エネルギーの源は肺から送りこまれます。

「ライフのオリジンはやっぱ、ハートですよ。スウィ-トハ-トと会うとハートがキュンとなるでしょう。あの時が生きているというヴイヴィドなセンスがカムアップしますネ。」なんて長嶋カントク調でやってきたのは、いつも物事の核心にせまる心臓学者です。そんな人に、心臓はただのポンプですよ、なんていったらしかられるでしょうね。現在のところ心停止が死の判定基準になっていますから。でも肺と心は昔からなじみの臓器です。発生も同じ時期で左へ心臓がいけば左の肺は遠慮して少し容積が小さくなります。心臓が右へいけば右の肺は遠慮します。蛇さんの肺なんか、心臓に遠慮して左の肺は無くなっています。スリムの体の中に心臓と左の肺が一緒にいると、窮屈ですからね。肺が気を使っているのは肺にとって心臓が大切だからです。大人になっても肺は心臓を取り囲み、その拍動をやさしく抱きかかえて、クッションの役目も果たしています。

世界最初の手術

紀元前約一万年頃〇月×日、神様は世界で初めての手術に成功しました。神様はこの手術に先がけてアダムを土のちりで造り、命の息をその鼻に吹きいれ、生きたものとしています。(創世記二章七節)しかし、男アダムを単身赴任させておくのは、精神衛生上良くないと考えたのか、神様は彼に助け手を造ろうとして、手術に踏み切りました。まずアダムを深く眠らせました。これは世界で最初の麻酔です。胸壁から肋骨を取りだし、そしてその取り出した肋骨のところを肉でふさいで、アダムの手術を終了しました。手術にかかった時間は未だ不明です。(創世記二章二一節)取り出された肋骨は右か左か、さらに上から何本目の肋骨か明らかにされていません。しかし、現在の人間の肋骨の数からすると第一番から第十番目までの肋骨とは考えられません。なぜなら、それらはすべて骨あるいは軟骨で出きており、肉でふさがっていないからです。従って後の方では脊椎骨につながっていて、前のほうは肉でふさがれている第十一肋骨か十二肋骨の可能性が強いとの情報を得ています。しかしながら、この肉で塞がれた肋骨のリブステーキがおいしいかどうかは、はっきりしません。

こうして取り出された肋骨で神様は女を造り、アダムのところへつれてこられました。彼女は彼にふさわしい女性であり、二人は創造主の下で新しい人生のスタ-トをきったのですが、多くの波風が彼らを待ち受けていました。けれども、それらの波風のたびに、エバは彼女の生まれたアダムの肋骨のところへ身をよせたに違いありません。なぜなら、一人で患難の中を歩くのは大変ですが、二人で並んで歩けば患難に耐えることができるからです。

因みにフランス語で「並んで」は cote a cote といいます。 cote には肋骨という意味がありますので、「並んで」ということはcote 肋骨と cote 肋骨を合わせてという意味になるわけです。

クロ-ン神様

ことの始まりはイザヤの予言、「処女がみごもっている。そして男の子を産み、(イザヤ書七章一四節)」で、これがまた成就してしまったから大変。進化論者達は何とかうまい理屈で、彼らにとってはいまいましいこの出来事を、生命の創造説と共に闇に葬ろうとしていますが、進化論の雲行き方のが怪しくなっています。御使いガブリエルから、聖霊がマリヤの上に臨み、男の子が誕生することを、マリヤは知らされました。(ルカ一章三一節)そのあとは男子の初子の出産の記事まで跳んでいます。(ルカ二章六節)

この間のマリヤの気持ちや表情は、エルグレコをはじめたくさんの芸術家によって再現されていますが、生物学者にとっては、マリヤの胎内の事も、心配ではあります。

受精卵から、合体直後の精子と卵子の核を取り除き、体細胞の核を組み込むと、分裂が進行し、体細胞を持っていた動物と全く同じ染色体の動物が生まれてきます。クロ-ン動物です。一九八一年以来、羊、牛、山羊で成功しています。ヒトではイラクのフセイン大統領が、数年前にアメリカの科学者に注文した、とかいう噂です。彼のクロ-ン人間が出来ても????

ところで、ミツバチやアリマキは精子の関与しない生殖をします。カエルやウニでの実験的な処女生殖が報告されていますが、ここで生まれるのは、すべて雌。でも、体細胞を組み込めば雄の誕生も簡単です。受精卵の核を取り出し、神様の体細胞の核を組み込ませると、神様のクロ-ンが出来るわけです。もちろん、マリヤの卵子は受精卵ではありませんので、受精卵状態にするためにも聖霊の働きが必要です。こう考えると、ルカ二章四九節の「父の家」事件とか、マリヤに対してキリストが、「お母さん」といわずに「女の方」と呼んでいるのも納得できそうです。(ヨハネ二章四節、一九章二六節)マリヤのDNAは入っていないのですから。神様の体細胞のクロ-ン神が主イエス、とすれば三位一体も納得でき、主イエスが幼い時から旧約聖書のすべてをご存知だったのも理解できます。これは推測ですので、天国にいけたら神様から真実をお聞きできるでしょうが、ダ-ウィンの、熊が鯨になるだろうという推論よりは当たりそうです。なぜなら、ダ-ウィンは既に、種の起源の第六版でその推論を削除してしまいましたから。

それにしても、旅先の宿屋の家畜小屋での分娩なんて、考えられません。超音波装置もないし、帝王切開の準備もなされていません。消毒も、沐浴も、点眼液も心配。でも神様と夫ヨセフ、そして自然分娩ではベテランのお馬さんや、牛さんが見守ってくれました。その辺の心配は杞憂で、すでにもう布にくるんで飼葉おけに寝かせてありました。(ルカ二章七節)最初のクリスマスは、とってもメディカルです。

割礼

「生まれて八日目に割礼を受けなければならない。」(創世記一七章一二節)ユダヤ人は今でもこの命令を守っています。男子の陰茎をとりまく包皮の一部を、一周切り取る手術です。これによってユダヤ人には真性包茎がいません。亀頭が露出しているため、恥垢がたまらないことから、いろいろな病気から守られています。特筆すべき点は、他の民族に比べて陰茎癌の頻度が非常に低いことです。真性包茎の頻度は世界中で地域差がなさそうですから、割礼が陰茎癌の予防に役立っていることは、確かです。さらに驚くべきことに、ユダヤ人のご婦人の子宮頚癌も少ないのです。子宮頚癌は経産婦に多く、ヘルペスウィルスの感染している人に多いようです。男性の性器がウイルスや細菌の棲家であったら、その人と付き合う女性も大変です。従って男性中心の儀式と考えられる割礼は、女性にとっても大切なものだったのです。

イスラエル人は割礼を戦いに利用したことがありました。ヤコブの子シメオンとレビです。彼らは妹デナがシケムによって辱しめられたことを知りました。そこで彼らはシケムをはじめとして彼の周囲のヒビ人にだまして割礼を受けさせ、術後三日目の痛みのひどい時に彼らを襲って皆殺しにしたのです。(創世記三四章)エジプト脱出の後の荒野では、この儀式はなされずカナンの地にはいってから割礼式が執行されました。

さてキリスト教徒は手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てます。肉のからだの一部ではなく、全部を脱ぎ捨てるのがキリストの割礼といえます。細菌も巣くわず、癌にもなりにくくなることでしょう。

双生児

双子の兄弟の兄はどちらか?、なんて質問は愚の骨頂とお思いでしょう。でも大事なんです。昔の日本では後から生まれてきたほうが兄だったのです。先に生まれてきた子より早くその生を受けたのではないかということから。最近では欧米にまねて早く生まれた者が兄になっています。

一卵性双生児の場合は、兄と弟との区別は全くできません。同時に二つの精子が一つの卵子に入るからです。これは一秒たりとも違わない同時受精ですが、二卵性の双生児の場合はどちらかが兄でどちらかが弟になります。受精の時に多少の時間的な差があるでしょうから。創世記のエサウとヤコブの場合は完全に二卵性です。エサウは毛深く、野生的であるのにヤコブは沈思黙考型。性格も全く異なっていたようです。イサクはエサウを兄として取り扱ったのですが、最終的にはリベカの望みどうりにヤコブが長子の特権を得ました。(創世記二五章)

聖書の中には他にペレツとゼラフがいます。彼らの誕生の時はペレツの手だけ先にでてきたのですが、すぐに引っ込めてしまったため、全身はゼラフのほうが先に出てきたことになりました。どちらが長子か難しいのですが、旧約の系図ではペレツが長子になり、キリストの系図にペレツが割り込んで入ってきます。(創世記三八章二七ー三0節)この二人に関しては性格も体格も聖書には記載がなく、一卵性か二卵性か全く分かりません。

リベカの子宮の中で本当はヤコブが先に受精していたのかは、全く神のみぞ知ることでしょう。人間がいくら考えてもこじつけても絶対に分かりません。なぜなら、子宮の中は謎が多いので、「迷宮入り」です。

多指症

ペリシテ人ラファの子孫の二四本指の闘士はヨナタンに倒されました。(サムエル記二一章二0節)手の指、足の指が六本づつ、合計四六の二四本になります。多指症は現代でも一000人に一人ぐらいの割合です。若いお母さんが多指症の赤ちゃんの指をとってくれと、外科医のところにきました。お姑さんが「うちの家系にはこんな子はいないんだからあんたのせいだよ。」と嫁いびりをされたためです。家系で多指症は生まれてきません。悪いのは自分達ではなく、嫁のせいにするのは姑の定石です。

マリリンモンローも多指症だったというニュースが流れると、多指症の人は美人かな、なんて思ったりします。

バッハの教会カンタータ「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」は、賢い五人の乙女と愚かな五人のお話をされる主イエスの広げた両手を見せてくれます。(マタイ二五章二節)この両手の十本の指が、十進法の始まりで、二進法のコンピュータには指がないばかりか、指で叩かれる生活を強いられています。

左利き

人種の差がなく左利きの人が約五ー一0%います。旧約聖書にもエフデ(士師記三章一五節)やベニヤミン族の勇士、左ききの七00人などが、登場してきます。進化とともに左利きが多くなるといいますが、チンバンジーの集団を観察した報告では、一四%の猿に左利きがいたようです。クロマニオン人の洞窟の壁画の、手に色素をふりかけて画いた手の数から考えて、約一七%が左利きであろうという研究者もいました。

ベニヤミン族の七00人の左ききの勇者は成人男子の約一0% にあたります。(士師記二0章一六節)進化とともに左利きが多くなるという理論は、もう一度考え直す必要があるようです。 詩篇一二一篇五節に、「主は、あなたの右の手をおおう陰。」とありますが、九0%の右利きの人に用意してある言葉ではありません。でも巷では、右翼、右大臣など右は権力のサイドです。主イエスの時代も右利き優位であったことは、間違いないでしょう。

そこで問題が出てきます。「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ五章三九節)」というマタイによる福音書の言葉です。右利きが多いと当然のことながら、左の頬を打たれる可能性が高いことになります。ですからこの主イエスの言葉は約一0%の人にしか効果がないのです。普遍的な話の必要なこの場面で、と考え込んでしまうのは当然でしょう。

人間社会は右利き優位ですので、とかく左利きの人は損をしています。冷蔵庫の扉、鋏、包丁、捻子回し、電話のダイヤル、そしてズボンのファスナーからゴルフの練習場に至るまで右優位です。左遷なんて聞いたらサラリーマンはもう、がっくり。 一つだけ左に有利な点は日本人が左に甘いことです。酒の上の事だから、という言葉があるように酔っぱらいの左党には寛大な国、それが日本です。 左利きの人は器用な人が多いとされています。例の日光の東照宮の眠り猫はその代表的なもので、作者の左甚五郎が器用な人の代名詞にまでなっています。

と、いうことで、とかく差別の多い左利きを敢えて主イエスが使ったのでしょうか?そうではない、という説もあります。実は右利きの人から右の頬を殴られる、という設定も考えられるからです。どこへいっても排斥されていたユダヤ人にとって話相手から右の手で右の頬をうたれる、即ち右手の甲で右の頬をうたれるという排斥のしぐさです。ですからどんなに排斥されてもその相手に左の頬をも向けるくらいに、食いついていく覚悟でキリストの教えを伝えなければならない、という至上命令がこの聖書の句には含まれている、という説です。 この摩擦の多い人間社会では、この左の頬を向けてまでしがみついていく態度は必要でしょうね。左遷されてもがんばらなくてはいけません。

 

生命の誕生

哺乳類の赤ちゃんが、母親から別れて最初に行う仕事は、息を吸うことです。そして、その吸った息で肺を膨らませます。その次に膨らんだ肺から最初の息をはきだします。はき出された息と一緒に出てくる「オギャ」という声は、お母さんにとって最高の音楽になります。この最初の仕事は赤ちゃんにとって大変な重労働です。生まれたばかりの空気の入っていない肺に空気をとり入れなければなりません。先ず肺の細胞は生まれたらすぐに、一度に、しかも大量に、石鹸のような界面活性物質を肺胞内に放出して肺の表面張力を下げます。次に赤ちゃんの肺は、肋骨と肋骨の間にある肋間筋や横隔膜やほかの胸部の筋肉の働きと協調して、空気を吸うという作業を一瞬にして行ないます。生まれる前にしてはいけません。羊水を吸いこんで、溺死してしまいます。遅れても危険です。赤ちゃんは酸欠になってしまいますから。その前に息を吸わなければならないのです。

この貴重な瞬間、誰かが赤ちゃんに息を吹きこんでいるのではないか、と考えるのは私だけでしょうか。創世記で神様が土のちりで作ったアダムの鼻に、命の息を吹きいれられたように、きっとすべての赤ちゃんに神様が息を吹きいれているのでしょう。

ギリシャ語で肺を意味するプネウマ(πνευμα)という言葉は聖書の中にたくさん使われていますが、肺という意味ではなく、霊、風、息吹、息、生命力という意味で用いられています。神から与えられる霊、という時に使われ、それらの代表は主イエスのバプテスマの際に天から鳩のように降ったプネウマ(マルコ一章一0節)です。さらに私たちのプネウマ(霊)の父は神であるとヘブル人への手紙は語っています。(ヘブル一二章九節)やはり、神様が赤ちゃんの最初の仕事に手をかしているという私の考えは正しいようです。

逆に肺から霊が出ていくことを、ヘクプネウ(εκπνεω)といいます。離れてというヘク(εκ)と、息をする=息をはく、という言葉のプネウ(πνεω)が合体したものです。主イエスが声高く叫んでついに息をひきとられたという箇所(マルコ一五章三七節)で使われています。ギリシャ語の肺プネウマ(πνευμα)は外に霊を意味します。霊は英語でスピリット(spirit)。このスピリットをとり入れること”inspire”は息を吸うことです。息を吸い霊をとりこむことによって、体に酸素が送りこまれ、脳の働きが始まり、inspiration(インスピレーション:霊感)がひらめきます。インスピレーションは目には見えませんが生命を維持するためには必要不可欠です。

そして人生の最期「ん」の像はその息をはきだし静かに眠る時の姿でしょう。このspiritをはきだすこと expire は死を示します。

新約ギリシャ語辞典の著者、岩隈直氏の肺は結核菌によって破壊されましたが、残った小さな肺に神様からのプネウマを充分とりいれてギリシャ語辞書作成の仕事を成し就げました。それはあらゆる真理に導いてくれる真理のプネウマ(ヨハネ一六章一三節)が彼に息を吹き込まれたからできた仕事だったに違いありません。

藤堂明保氏は「肺という字は市(フツ)という生命の息吹を表す字に肉を付けたもの」と記しています。やはり生命の誕生は息をすることからはじまるのでしょう。東大寺南大門では二つの金剛力士像が、口を開いた像と閉じた像で私たちを倪んでいます。

「口をあけた像は生を示し、閉ざした像は死を意味しています。日本語の五0音の初めの『あ』と終わりの『ん』を叫んでいるのです。」と、奈良の観光バスのガイドさんは東大寺南大門の前で、淡々と説明してくれました。生命の息をとりこみ、そしてはきだす、これが人生かもしれません。さしずめ溜息は人生の一区切りなのでしょうか。

肺に始まり、肺に終わる人生、肺は生命の源だ、などというと多くの反論が出てくるでしょう。血液学者の中には「生命の源は血にある」とおっしゃる熱血漢が多そうです。出血多量で命を落とします。人の命は血にあると旧約聖書のレビ記の記者も語っていますし。(レビ記一七章一四節)でも肺からはいる酸素を運ぶのが血液の役目です。酸素の薄い高地では体内の赤血球の数を増量して体内に酸素を多く送らなければなりません。そのためにエリスロポイエチンという物質が必要です。血液中の酸素濃度を骨髄に伝える伝令です。肺気腫症や肺線維症のような肺障害がおきた状態でもエリスロポイエチンは増加します。熱血漢も肺の支配下にあるといっても過言ではないでしょう。もうひとつの反論が聞こえてきました。「生命の源は脳ですよ。人間は考える葦ですから。」ナーバスな神経学者です。確かに無脳児は生きていけません。「脳なし!」なんて言葉を使ったら殺人罪で訴えられます。脳がしばしばコンピュータに比較されるのは脳の神経細胞がいろいろな刺激に対してON、OFFのスイッチになったり、記憶装置(RAM,ROM)であったり、中央演算装置(CPU)だったりするからです。時々ディスプレィにもなりますよ。ほら美しい夢を見たり、思い出に耽ったりするでしょう。でも電源を入れなければ、そして電気がなければコンピュータも動きません。エネルギーの源は肺から送りこまれます。

「ライフのオリジンはやっぱ、ハートですよ。スウィ-トハ-トと会うとハートがキュンとなるでしょう。あの時が生きているというヴイヴィドなセンスがカムアップしますネ。」なんて長嶋カントク調でやってきたのは、いつも物事の核心にせまる心臓学者です。そんな人に、心臓はただのポンプですよ、なんていったらしかられるでしょうね。現在のところ心停止が死の判定基準になっていますから。でも肺と心は昔からなじみの臓器です。発生も同じ時期で左へ心臓がいけば左の肺は遠慮して少し容積が小さくなります。心臓が右へいけば右の肺は遠慮します。蛇さんの肺なんか、心臓に遠慮して左の肺は無くなっています。スリムの体の中に心臓と左の肺が一緒にいると、窮屈ですからね。肺が気を使っているのは肺にとって心臓が大切だからです。大人になっても肺は心臓を取り囲み、その拍動をやさしく抱きかかえて、クッションの役目も果たしています。

世界最初の手術

紀元前約一万年頃〇月×日、神様は世界で初めての手術に成功しました。神様はこの手術に先がけてアダムを土のちりで造り、命の息をその鼻に吹きいれ、生きたものとしています。(創世記二章七節)しかし、男アダムを単身赴任させておくのは、精神衛生上良くないと考えたのか、神様は彼に助け手を造ろうとして、手術に踏み切りました。まずアダムを深く眠らせました。これは世界で最初の麻酔です。胸壁から肋骨を取りだし、そしてその取り出した肋骨のところを肉でふさいで、アダムの手術を終了しました。手術にかかった時間は未だ不明です。(創世記二章二一節)取り出された肋骨は右か左か、さらに上から何本目の肋骨か明らかにされていません。しかし、現在の人間の肋骨の数からすると第一番から第十番目までの肋骨とは考えられません。なぜなら、それらはすべて骨あるいは軟骨で出きており、肉でふさがっていないからです。従って後の方では脊椎骨につながっていて、前のほうは肉でふさがれている第十一肋骨か十二肋骨の可能性が強いとの情報を得ています。しかしながら、この肉で塞がれた肋骨のリブステーキがおいしいかどうかは、はっきりしません。

こうして取り出された肋骨で神様は女を造り、アダムのところへつれてこられました。彼女は彼にふさわしい女性であり、二人は創造主の下で新しい人生のスタ-トをきったのですが、多くの波風が彼らを待ち受けていました。けれども、それらの波風のたびに、エバは彼女の生まれたアダムの肋骨のところへ身をよせたに違いありません。なぜなら、一人で患難の中を歩くのは大変ですが、二人で並んで歩けば患難に耐えることができるからです。

因みにフランス語で「並んで」は cote a cote といいます。 cote には肋骨という意味がありますので、「並んで」ということはcote 肋骨と cote 肋骨を合わせてという意味になるわけです。

クロ-ン神様

ことの始まりはイザヤの予言、「処女がみごもっている。そして男の子を産み、(イザヤ書七章一四節)」で、これがまた成就してしまったから大変。進化論者達は何とかうまい理屈で、彼らにとってはいまいましいこの出来事を、生命の創造説と共に闇に葬ろうとしていますが、進化論の雲行き方のが怪しくなっています。御使いガブリエルから、聖霊がマリヤの上に臨み、男の子が誕生することを、マリヤは知らされました。(ルカ一章三一節)そのあとは男子の初子の出産の記事まで跳んでいます。(ルカ二章六節)

この間のマリヤの気持ちや表情は、エルグレコをはじめたくさんの芸術家によって再現されていますが、生物学者にとっては、マリヤの胎内の事も、心配ではあります。

受精卵から、合体直後の精子と卵子の核を取り除き、体細胞の核を組み込むと、分裂が進行し、体細胞を持っていた動物と全く同じ染色体の動物が生まれてきます。クロ-ン動物です。一九八一年以来、羊、牛、山羊で成功しています。ヒトではイラクのフセイン大統領が、数年前にアメリカの科学者に注文した、とかいう噂です。彼のクロ-ン人間が出来ても????

ところで、ミツバチやアリマキは精子の関与しない生殖をします。カエルやウニでの実験的な処女生殖が報告されていますが、ここで生まれるのは、すべて雌。でも、体細胞を組み込めば雄の誕生も簡単です。受精卵の核を取り出し、神様の体細胞の核を組み込ませると、神様のクロ-ンが出来るわけです。もちろん、マリヤの卵子は受精卵ではありませんので、受精卵状態にするためにも聖霊の働きが必要です。こう考えると、ルカ二章四九節の「父の家」事件とか、マリヤに対してキリストが、「お母さん」といわずに「女の方」と呼んでいるのも納得できそうです。(ヨハネ二章四節、一九章二六節)マリヤのDNAは入っていないのですから。神様の体細胞のクロ-ン神が主イエス、とすれば三位一体も納得でき、主イエスが幼い時から旧約聖書のすべてをご存知だったのも理解できます。これは推測ですので、天国にいけたら神様から真実をお聞きできるでしょうが、ダ-ウィンの、熊が鯨になるだろうという推論よりは当たりそうです。なぜなら、ダ-ウィンは既に、種の起源の第六版でその推論を削除してしまいましたから。

それにしても、旅先の宿屋の家畜小屋での分娩なんて、考えられません。超音波装置もないし、帝王切開の準備もなされていません。消毒も、沐浴も、点眼液も心配。でも神様と夫ヨセフ、そして自然分娩ではベテランのお馬さんや、牛さんが見守ってくれました。その辺の心配は杞憂で、すでにもう布にくるんで飼葉おけに寝かせてありました。(ルカ二章七節)最初のクリスマスは、とってもメディカルです。

割礼

「生まれて八日目に割礼を受けなければならない。」(創世記一七章一二節)ユダヤ人は今でもこの命令を守っています。男子の陰茎をとりまく包皮の一部を、一周切り取る手術です。これによってユダヤ人には真性包茎がいません。亀頭が露出しているため、恥垢がたまらないことから、いろいろな病気から守られています。特筆すべき点は、他の民族に比べて陰茎癌の頻度が非常に低いことです。真性包茎の頻度は世界中で地域差がなさそうですから、割礼が陰茎癌の予防に役立っていることは、確かです。さらに驚くべきことに、ユダヤ人のご婦人の子宮頚癌も少ないのです。子宮頚癌は経産婦に多く、ヘルペスウィルスの感染している人に多いようです。男性の性器がウイルスや細菌の棲家であったら、その人と付き合う女性も大変です。従って男性中心の儀式と考えられる割礼は、女性にとっても大切なものだったのです。

イスラエル人は割礼を戦いに利用したことがありました。ヤコブの子シメオンとレビです。彼らは妹デナがシケムによって辱しめられたことを知りました。そこで彼らはシケムをはじめとして彼の周囲のヒビ人にだまして割礼を受けさせ、術後三日目の痛みのひどい時に彼らを襲って皆殺しにしたのです。(創世記三四章)エジプト脱出の後の荒野では、この儀式はなされずカナンの地にはいってから割礼式が執行されました。

さてキリスト教徒は手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てます。肉のからだの一部ではなく、全部を脱ぎ捨てるのがキリストの割礼といえます。細菌も巣くわず、癌にもなりにくくなることでしょう。

双生児

双子の兄弟の兄はどちらか?、なんて質問は愚の骨頂とお思いでしょう。でも大事なんです。昔の日本では後から生まれてきたほうが兄だったのです。先に生まれてきた子より早くその生を受けたのではないかということから。最近では欧米にまねて早く生まれた者が兄になっています。

一卵性双生児の場合は、兄と弟との区別は全くできません。同時に二つの精子が一つの卵子に入るからです。これは一秒たりとも違わない同時受精ですが、二卵性の双生児の場合はどちらかが兄でどちらかが弟になります。受精の時に多少の時間的な差があるでしょうから。創世記のエサウとヤコブの場合は完全に二卵性です。エサウは毛深く、野生的であるのにヤコブは沈思黙考型。性格も全く異なっていたようです。イサクはエサウを兄として取り扱ったのですが、最終的にはリベカの望みどうりにヤコブが長子の特権を得ました。(創世記二五章)

聖書の中には他にペレツとゼラフがいます。彼らの誕生の時はペレツの手だけ先にでてきたのですが、すぐに引っ込めてしまったため、全身はゼラフのほうが先に出てきたことになりました。どちらが長子か難しいのですが、旧約の系図ではペレツが長子になり、キリストの系図にペレツが割り込んで入ってきます。(創世記三八章二七ー三0節)この二人に関しては性格も体格も聖書には記載がなく、一卵性か二卵性か全く分かりません。

リベカの子宮の中で本当はヤコブが先に受精していたのかは、全く神のみぞ知ることでしょう。人間がいくら考えてもこじつけても絶対に分かりません。なぜなら、子宮の中は謎が多いので、「迷宮入り」です。

多指症

ペリシテ人ラファの子孫の二四本指の闘士はヨナタンに倒されました。(サムエル記二一章二0節)手の指、足の指が六本づつ、合計四六の二四本になります。多指症は現代でも一000人に一人ぐらいの割合です。若いお母さんが多指症の赤ちゃんの指をとってくれと、外科医のところにきました。お姑さんが「うちの家系にはこんな子はいないんだからあんたのせいだよ。」と嫁いびりをされたためです。家系で多指症は生まれてきません。悪いのは自分達ではなく、嫁のせいにするのは姑の定石です。

マリリンモンローも多指症だったというニュースが流れると、多指症の人は美人かな、なんて思ったりします。

バッハの教会カンタータ「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」は、賢い五人の乙女と愚かな五人のお話をされる主イエスの広げた両手を見せてくれます。(マタイ二五章二節)この両手の十本の指が、十進法の始まりで、二進法のコンピュータには指がないばかりか、指で叩かれる生活を強いられています。

左利き

人種の差がなく左利きの人が約五ー一0%います。旧約聖書にもエフデ(士師記三章一五節)やベニヤミン族の勇士、左ききの七00人などが、登場してきます。進化とともに左利きが多くなるといいますが、チンバンジーの集団を観察した報告では、一四%の猿に左利きがいたようです。クロマニオン人の洞窟の壁画の、手に色素をふりかけて画いた手の数から考えて、約一七%が左利きであろうという研究者もいました。

ベニヤミン族の七00人の左ききの勇者は成人男子の約一0% にあたります。(士師記二0章一六節)進化とともに左利きが多くなるという理論は、もう一度考え直す必要があるようです。 詩篇一二一篇五節に、「主は、あなたの右の手をおおう陰。」とありますが、九0%の右利きの人に用意してある言葉ではありません。でも巷では、右翼、右大臣など右は権力のサイドです。主イエスの時代も右利き優位であったことは、間違いないでしょう。

そこで問題が出てきます。「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ五章三九節)」というマタイによる福音書の言葉です。右利きが多いと当然のことながら、左の頬を打たれる可能性が高いことになります。ですからこの主イエスの言葉は約一0%の人にしか効果がないのです。普遍的な話の必要なこの場面で、と考え込んでしまうのは当然でしょう。

人間社会は右利き優位ですので、とかく左利きの人は損をしています。冷蔵庫の扉、鋏、包丁、捻子回し、電話のダイヤル、そしてズボンのファスナーからゴルフの練習場に至るまで右優位です。左遷なんて聞いたらサラリーマンはもう、がっくり。 一つだけ左に有利な点は日本人が左に甘いことです。酒の上の事だから、という言葉があるように酔っぱらいの左党には寛大な国、それが日本です。 左利きの人は器用な人が多いとされています。例の日光の東照宮の眠り猫はその代表的なもので、作者の左甚五郎が器用な人の代名詞にまでなっています。

と、いうことで、とかく差別の多い左利きを敢えて主イエスが使ったのでしょうか?そうではない、という説もあります。実は右利きの人から右の頬を殴られる、という設定も考えられるからです。どこへいっても排斥されていたユダヤ人にとって話相手から右の手で右の頬をうたれる、即ち右手の甲で右の頬をうたれるという排斥のしぐさです。ですからどんなに排斥されてもその相手に左の頬をも向けるくらいに、食いついていく覚悟でキリストの教えを伝えなければならない、という至上命令がこの聖書の句には含まれている、という説です。 この摩擦の多い人間社会では、この左の頬を向けてまでしがみついていく態度は必要でしょうね。左遷されてもがんばらなくてはいけません。