召命
一九六二年五月、一七歳、開成高校三年、いよいよ大学受験の本格的準備には入ろうとしていた時、高校生聖書伝道協会(Hi-B.A.)の集会に出席し、聖書の学びを始めました。小学校三年生の頃の教会学校の思い出が、高三の上野の集会につながったのだと思います。受験勉強と並列させて聖書を読み、八月のバイブルキャンプでイエスキリストが私の罪の救い主であることを信ずる事が出来た時、旧約聖書の冒頭の天地創造も簡単に理解できました。
その十一月、世界宣教団体の集会でネパールのハンセン病の子供達のスライドを見ました。その一枚のスライドは医者になれ、と語っていました。 翌年(一九六三年)、三月に医学部を受験し、自宅から一番近い医学部に入りました。その大学の面接試験は今でも覚えております。私の中学高校の先輩でいらした試験官は母校の事、同級生で母校の教師をしていらした数学の先生の消息などをお尋ねになった後、「受かる自信がありますか?」と目を細めながらお聞きになりました。当然謙遜の美徳、「ありません。」と答えるべきでしょうが、私はその前の晩、教会の副牧師との祈りを思い出しました。「この大学に神様が入れて下さる事を信じます。木村さん、信じましょう。」イエス様が試験官の上にいらっしゃいます。従いまして返事は「ハイッ、自信があります。」でした。五、六人の試験官の「ほーー」というため息から、筆記試験の成績が当落すれすれだったのではないかと思います。とにかく神様の導きで入学できました。
しかし、当時の医学部はインターン闘争、私も無給医制度に反対し、大学医局を批判しましたので、卒業時、大学の医局に入ることはできません。アジアの国には結核がまだ多かった事と、らい菌は結核菌の仲間であることから結核予防会結核研究所の研究員になり、結核の病理の研究を始めたわけです。 しかし、肺の病いは当時すでに肺結核から肺癌へ移りつつあり、結核病棟に肺癌患者が送られ来ていました。結核の病理から肺癌の病理への方向転換は容易でした。毎日肺癌細胞の微細構造を電子顕微鏡で調べ、新しい発見を引き出した結果、仕事場を東京都老人総合研究所に移し、肺癌患者が多い老人を研究の対象にしました。老人研での研究は認められ、一九八三年に筑波大学の教官として呼び出され、医学部を卒業したての若い病理医や大学院生と共に人体解剖、病理診断、動物実験の毎日を送りました。
ところが、結研時代からお手伝いをしていた横須賀共済病院から、臨床医、特に研修医の教育のため、病理部を新設するということで病理部長就任依頼を受けました。一九八七年です。病理医が少ない横須賀は仕事も多く、臨床の先生方との共同研究も数多くなすことができ、アスベストと肺癌の関連も追求する設備も整えました。
しかし、一九九二年二月、妻が雑誌医学と福音の中に、小さな求人広告を見つけたのです。「ネパールでクリスチャン病理医を求めている。」その日本キリスト教海外医療協力会JOCSの記事は、私を三〇年前の高校三年生へ一気に引き戻したのです。ネパールに行かないか、病理医として、と神様から聞かれました。そのとき「ほかに適任者がいるでしょう、なにもクリスチャン病理医が五人しかいない日本からでなくても。」と神様に答えましたが、私以外該当者はいないようです。
横須賀共済病院を三年間休職にして、などという甘い考えを持っていましたが、日本の職場に通用しません。「すべてを捨てて、行きなさい、」これが神様の命令でした。不思議にも気持ちは平静で、将来に対して何の不安もないのは背後についていてくださるお方のせいでしょう。今までに教えられた病理学を通して少しでも主イエス・キリストのお役にたてばと、ネパール行きを決心しました。そして神様はハガイ二章四節をお示しになり、「仕事に取りかかれ。私があなたと共にいるからだ。万軍の主の御告げ。(ハガイ二章四節)」と、おっしゃったのです。
一九六二年五月、一七歳、開成高校三年、いよいよ大学受験の本格的準備には入ろうとしていた時、高校生聖書伝道協会(Hi-B.A.)の集会に出席し、聖書の学びを始めました。小学校三年生の頃の教会学校の思い出が、高三の上野の集会につながったのだと思います。受験勉強と並列させて聖書を読み、八月のバイブルキャンプでイエスキリストが私の罪の救い主であることを信ずる事が出来た時、旧約聖書の冒頭の天地創造も簡単に理解できました。
その十一月、世界宣教団体の集会でネパールのハンセン病の子供達のスライドを見ました。その一枚のスライドは医者になれ、と語っていました。 翌年(一九六三年)、三月に医学部を受験し、自宅から一番近い医学部に入りました。その大学の面接試験は今でも覚えております。私の中学高校の先輩でいらした試験官は母校の事、同級生で母校の教師をしていらした数学の先生の消息などをお尋ねになった後、「受かる自信がありますか?」と目を細めながらお聞きになりました。当然謙遜の美徳、「ありません。」と答えるべきでしょうが、私はその前の晩、教会の副牧師との祈りを思い出しました。「この大学に神様が入れて下さる事を信じます。木村さん、信じましょう。」イエス様が試験官の上にいらっしゃいます。従いまして返事は「ハイッ、自信があります。」でした。五、六人の試験官の「ほーー」というため息から、筆記試験の成績が当落すれすれだったのではないかと思います。とにかく神様の導きで入学できました。
しかし、当時の医学部はインターン闘争、私も無給医制度に反対し、大学医局を批判しましたので、卒業時、大学の医局に入ることはできません。アジアの国には結核がまだ多かった事と、らい菌は結核菌の仲間であることから結核予防会結核研究所の研究員になり、結核の病理の研究を始めたわけです。 しかし、肺の病いは当時すでに肺結核から肺癌へ移りつつあり、結核病棟に肺癌患者が送られ来ていました。結核の病理から肺癌の病理への方向転換は容易でした。毎日肺癌細胞の微細構造を電子顕微鏡で調べ、新しい発見を引き出した結果、仕事場を東京都老人総合研究所に移し、肺癌患者が多い老人を研究の対象にしました。老人研での研究は認められ、一九八三年に筑波大学の教官として呼び出され、医学部を卒業したての若い病理医や大学院生と共に人体解剖、病理診断、動物実験の毎日を送りました。
ところが、結研時代からお手伝いをしていた横須賀共済病院から、臨床医、特に研修医の教育のため、病理部を新設するということで病理部長就任依頼を受けました。一九八七年です。病理医が少ない横須賀は仕事も多く、臨床の先生方との共同研究も数多くなすことができ、アスベストと肺癌の関連も追求する設備も整えました。
しかし、一九九二年二月、妻が雑誌医学と福音の中に、小さな求人広告を見つけたのです。「ネパールでクリスチャン病理医を求めている。」その日本キリスト教海外医療協力会JOCSの記事は、私を三〇年前の高校三年生へ一気に引き戻したのです。ネパールに行かないか、病理医として、と神様から聞かれました。そのとき「ほかに適任者がいるでしょう、なにもクリスチャン病理医が五人しかいない日本からでなくても。」と神様に答えましたが、私以外該当者はいないようです。
横須賀共済病院を三年間休職にして、などという甘い考えを持っていましたが、日本の職場に通用しません。「すべてを捨てて、行きなさい、」これが神様の命令でした。不思議にも気持ちは平静で、将来に対して何の不安もないのは背後についていてくださるお方のせいでしょう。今までに教えられた病理学を通して少しでも主イエス・キリストのお役にたてばと、ネパール行きを決心しました。そして神様はハガイ二章四節をお示しになり、「仕事に取りかかれ。私があなたと共にいるからだ。万軍の主の御告げ。(ハガイ二章四節)」と、おっしゃったのです。