問題だったのはアナカン(unaccompanied baggages
非携帯荷物)の書類がアナンダバンのハンセン病院に行ってしまい、手に入らず、荷物が届かなかった事です。アナカンから何の連絡も無く、数日UMNのゲストハウスで待っていました。手紙はアナカンからレプローシーミッションに派遣されている宮崎伸子さんの住所にいってしまい、たまたま宮崎さんがパタン病院に水曜日にきたついでに手紙を運んで下さり、病院からUMNのヘッドクォーターまで転送されました。UMNからゲストハウスにくるまで、また時間がかかり、十一日の午後やっと書類を手にいれました。しかし、アナカンのリストがないとの事でリスト作りをもう一度しなければなりませんでした。
カトマンドゥ到着二八日後にようやくアナカンの荷物三七箱を受け取ることが出来ました。一月の初めに賄賂のひどいお役人の二万人とも言われる大量解雇があり、それにともなって二六日から税関職員が変わったらしく、時間はかかりました。しかし、電気製品に一切関税をかけられず、噂にあった一箱三〇ルピーの運び賃なども要求されず、保管料だけで済みました。アナカンのリストが手に入らなかったので手元にあったコピーをタイプし直したのですが、電気製品のところが間違いだらけでした。当然のことで私が勝手に付けた順番ですので横浜桜木町のラオックスの付けた順番に一致するはずがありません。その辺でゴタゴタしている間に税関担当官の内容を調べようとする熱意が冷めたらしく、税関保管料の二千八百ルピー(一日百ルピー)だけですんなり通してくれました。こちらのLOP(ネパール語研修生)内の噂では二百%の税が付くとか、税金があまり高いので日本へ送り返した伊藤邦幸先生の例などを耳にしたものですから、もう税金は覚悟の上だったのですが、完璧な神様の業にただただ驚くばかりでした。
アナンダバンのハンセン病院に手紙が行ってしまってなかなか空港に行けなかったのも神様の御手のわざでしょう。日本から届いたこれらの品々を神様の為に有効に使わなければならないと考えさせられました。 パタン病院も院長が休暇中でしたので、事務長さんのカワスさんに顕微鏡等の受け入れをお願いしたり、結構荷物の取り込みは大変です。取り込み中という言葉があったなぁなどと一人で日本語の勉強です。「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。箴言十九章二一節」
私たちが一月三日にネパール入りした頃はきんきんと寒く、手で触れるような深い霧で開けていた朝のネパールも、三月に入ってからは冷え込みもぐっと和らぎ、梅、桃、桜が一度に開花してきました。しかも桜など葉も一緒に出てきています。その上花がなかなか散りません。桜かな、桃かな、などと考えながら眺めていましたが、ふと足元をみますと、そこにはフリージャ、きんせん花、デージー、さつき、黄色い花で刺のないミニバラ、金魚草、ジャーマンアイリス、アネモネの一種のような花、カラー等全ての花がこれもまた一斉に咲き始めました。
なんときれいな、と思わず喚声を挙げる毎日でしたが、植物が育つのに水が必要です。ネパールは極度に水不足で、水力発電に頼っている電気は毎日停電です。きれいな花のある家は一日一度何時間もかけて必ず水を撒きます。なぜかなと考えましたら植木屋さんはお金持ちに雇われていて、生活するために自分達の仕事、すなわち花を立派に咲かせなければならないのです。その辺の調節は雇用関係から解決しないと行けない問題で、これは植木屋さんに限ったことではありません。いろいろな職種がカースト制度と絡んでいて複雑な社会を構成しています。
UMNも手がけていますが、日本の援助も加わって水力発電が進んでいると聞いていましたのでせいぜい目を楽しませて戴きました。三月に入ってから停電の時間がだんだん長くなってきて、うっかり忘れると大変です。水もお湯もストップ、日本製の最新式の電子レンジで記憶できるという優れ物を持ってきたのですが、停電と同時に記憶はなくなってしまいました。御言葉につながっていないと記憶がなくなる、などと言う教訓も停電は与えてくれました。
水も電気もこんなに貴重だったのか、と考えを新たにしましたが、詩篇の聖句のようにいろいろな点で満たされており感謝でした。「地は主の恵みに満ちている。詩篇三三篇五節」
私達の住宅の件ですが、四カ所を見ました。職場パタンホスピタルに近いこと、恒太郎の学校のこと等を考慮し、なかなか決められませんでした。カーペット工場の近くで騒音とゴミの中だったり、狭い部屋の上にせまいキッチン、日本人が兎小屋に住んでいるからここいらで、といわれているような被害妄想まで持ってしまいました。三軒目は家自体は広くていいのですがその家に行くまでが砂の道で、雨期には泥沼化する道です。
しかし神様は四軒目に素敵な新築の家を用意して下さいました。窓も大きく、ネパールの家にしては明るい家で、キッチンも比較的広く、リビングルームも集会が出来る広さです。しかも一階にはネパール語特訓クラスのクラスメートリンとジョンが入居します。ロンドンから来ているリンとジョンには四年生のレイチェルと三年生のハンナという二人の女の子がいて、優しくて可愛いレイチェルの振る舞い、仕草、そして態度が恒太郎の姉康子の小さい時にそっくり。ブリティシュイングリッシュですが話し方まで似ているのです。妹のハンナはすきっとした美人ですが、なかなか活発で、年下の男の子たちと暴れまくって泣かしたり、泣いたり忙しい子です。
この二人のお嬢さんは恒太郎のことが大好きです。恒太郎は逃げ回っていますが、結構楽しそうです。しかもレイチェルの英語だけは我々が完全に分かる英語なのです。大家さんはロングディスタンスの電話を入れてくれました。FAXが使えます。この家の周囲に日本国際協力事業団(JICA)の人が住んでいてなにかと心強い思いです。 この家探しでも不思議な事がありました。UMN住宅課のオーショクさんです。私たちが初めてネパール語の挨拶を習ったばかりの放課後、教室からゲストハウスに帰る途中で出会ったきちんとした身なりのネパール人が彼でした。練習のつもりで、挨拶をしたのがですが、彼がUMNの職員だとは知りませんでした。その直後に住宅の事でお世話になりびっくりしたのです。さらに私たちはサネパチャーチに行っているのですが、何ヵ月かに一度の割で合同礼拝が行われるガネシュワルチャーチへ初めて行こうとしていたとき、一緒に行ったヒサとはぐれてしまい、行き道が分からず困っていたときに神様がそこに待機させていたかのように立っていたのがオーショクさんでした。小さい男の子の手を引きながら教会の見えるところまで道案内をしてくれたのです。彼の為に祈らねばなりません。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。マタイ六章三三節」
空港税関にまた足を運びました。運よくネパール語教師の都合でレッスン日がぽっかりとあいたので娘康子から送られてきた恒太郎の空手の帯や計算機付きの時計、そしてバレンタインのチョコレートを取りに行きました。税関では開函を命じられ、時計は一番に彼らの目に止まりました。思わず、FOR MY SON
と言ったとき、それまで険しかった彼の目は一瞬優しくなり、例によって首を傾げるように左右に振るネパール人の「はい」の仕草で、分かったといいました。でも税関止まりなので人手が五-六人、書類が十枚ほどかかってしまいました。従ってネパールでは宅配便は無理です。なぜかゆうパックはヘッドクウオターまで届きました。しっかり箱は開けられていましたが。しかしゆうパックもたまたま届いたのかも知れません。とにかく「男しゃくいも」と書かれたのダンボール箱が見えたときは嬉しくなりました。
時計ですが、始めにお父さんに時刻などをセットしてもらった後、恒太郎は秘密の枠内に何らかの番号を入れました。いったい何の番号なのか分かりません。お父さんは知りたがるのですが、彼は番号も意味も教えません。学校へはめて行っても数人にちらりと見せるのみで大事にしているのだそうです。 チョコレートに関してはいうに及ばず、ぎゃという喚声、その後、「誰にもあげないで」。そういう訳には行きません。いろいろお世話になった方にわたしました。ゲストハウスのアーニャは、オランダからのファミリーで、いつも食卓が私たちと同じ、来週水曜日には研修を終え、任地ブトワールへ行く予定なのにげっそりと衰弱してしまったので、彼らに大判チョコレートを渡しました。そのときの彼らの喜びよう言い表せません。恒太郎もともに喜んだのです。とにかく中間に沢山の塀があるらしく、我々は塀の中の懲りない面々。手紙だと日本からは約五日から十二日間で届きます。いろいろな方から新聞や雑誌を送って戴きました。日本ではトイレで読む習慣が抜けきれなかった新聞ですが、ここでは活字がものすごく大切に感じられます。「人の歩は主によって確かにされる。詩篇三七篇二三節」
本格的なネパール語の個人レッスンに入って、周囲はほとんどネパール語になりました。ネパール語で悩まされている昼間は何とかなるのですが、「夜のネパール語(犬の吠える声)」、には本当に悩まされています。きまって十時頃から始まり、たっぷり二時間は続く合唱。ネパールの犬の九九%は放し飼いで昼間は道路の端々、特に暖かいところにベッタリと寝ころんでいます。それが夜になるととたんに元気になり吠えだします。旅行のガイドブックにも出ていましたが、こんなに決まって毎晩あるとは思ってもいませんでした。私たちが泊まっているバイデァさんのお宅のオスカーもときどき食べ物をあげたせいか、わざわざ私たちの部屋の真下で吠えます。一匹吠え出すと、あちこちから同調者が現れ、私たちを夢の世界から引き戻すわけです。ネパールの犬はほとんど繋がれていません。日本の犬よりも野生的ですが、人間との間に一線を隔しています。人間の食べ残しをあさって生きているのがほとんどですが、半径五百mぐらいの縄張りは越えられません。私たちの後についてきたオスカーはうっかり縄張りを越えてしまい、数匹の小さい犬に取り囲まれ大変。それ以来私たちの後を追うことをやめました。
このオスカーには息子の恒太郎が「奥様」と名付けた茶色の雌犬が毎晩訪ねてきて、愛の遠吠えが始まります。この通称「奥様」に子供が出来ました。大きいお腹をみているとカルシウムが不足してはいけない、などと日曜日のお昼に時々でるフライドチキンの残りの骨をあげたり、煮干を与えたりしていました。恒太郎や私たちを見ると耳を下げ、しっぽを思いきり振りながら近づいてきます。
この奥様が突然いなくなりました。多分どこかで赤ちゃんを生んだんだろうと考えていましたが、やはり四日後の朝、ひょっこりとお腹を小さくしてやってきました。かなりの空腹らしく、差し出されたご飯をぺろっと平らげて、すたすた走り出しました。バイデァ家の小さな植木屋さん、ラム君といっしょに追跡し、ある家の階段の下の物置に小さな赤ちゃん犬六匹を見つけました。まだ目はあいていません。縄張りから少しはずれてはいましたが、赤ちゃんを抱えた別の犬のテリトリー内、多分話し合いをつけて生み場所、育て場所を決めたのでしょう。一日二回は元の縄張りに戻ってきて、以前と同じごみ箱をあさったり、気まぐれにくれる人間の残飯を食べたりの生活です。日本の犬と比較してどちらが幸せか、という問題は別にして、ネパールの犬は犬の生活を満喫しているようです。
カトマンドゥには信号が数えるくらいしかありません。しかし車の数はたいへん多く、道路を渡るのは決死の覚悟です。ほとんどの運転手さんは気が急いていて、人間を先に通すのが嫌いです。象とか牛の場合は宗教上の理由から譲ることにしているようですが人間は別です。ですから道路を歩いていると五歩に二回は警笛を鳴らされます。二回というのは多くの車が一度に「ぴぴ」と二回鳴らすためです。バッテリーの弱っている車はケケと鳴らします。ネパール語で「ケ?ケ?(何?何?)」と聞いているようで、時々、何でもないよと言ってやります。横断歩道もあってなきが如くで車の間をいかにうまくすり抜けるかが生死の分かれ目になります。
カトマンドゥには大きく分けて五種類の車種があります。一.トラック(一割)、二.バス(一割)、三.乗用車(四割)、四.タクシー(二割)、五.バイク(二割)です。トラックはほとんどがインド製、バスはインド製が八割、日本製が一割、乗用車は九割が日本製、あとは韓国HUNDAI、ドイツBENZ、タクシーは一〇割が日本製、但し小型三輪のテンプータクシーは全てインド製です。バイクは七割が日本製、三割がインド製です。大型のディーゼル車にインド製が多く、排ガス規制などないので、それらが天真爛漫に真っ黒いガスを吹き出して走っています。ですからカトマンドゥはいつもスモッグだらけ。日本製の乗用車も何年走っているか分からないような傷だらけ人生ものです。
タクシーに乗って急に雨が降り始めたため窓を閉めようとしたら、窓のハンドルがなかったり、助手席に乗り、ドアを閉め、座席により掛かったら自動リクライニングシートで後にもろに倒れたり、次はどんなタクシーか興味深々です。天井からの雨漏りなど、日本では考えられない車がタクシーなのです。勿論クーラーのついているタクシーには一台もお目にかかっておりません。
タクシーの運転手さんは日本人を見るとメーターを倒さない癖があります。お金持ちだから運転手さんの言い値で払ってくれるのが日本人なのでしょう。二倍三倍の値段を要求してきます。日本語でベラボウな料金を言ってくる時もある最近のカトマンドゥです。こちらもネパール語で料金メーターを使ってくれ、と要求しますと、メーターを渋々倒してくれます。 タクシーの頼み方をのみこむまでしばらく時間がかかりました。空車?ときき、運転手さんが首を右肩か左肩の方へ倒したらOKのサインです。最初ノーのサインかと思って次の車を待っていたら、その首を斜めに振った運転手さんからなぜ乗らないの、と催促に来ました。そんなことを四五回繰り返してから、やっと首を斜めに倒すイエスのサインが分かってきました。ネパール語でお願いし、ネパール語で話をし出すとメーターも倒してくれます。タクシー料金が安いので(初乗り二.四ルピー、約六円)、ストライキが頻繁です。
先日京都の近藤和江さんからわざわざ横須賀から取り寄せて送ってくれた昆布やわかめ、鰹節パック、ダシ入り味噌が届きました。彼女の書いてくれたリストからすると全て到着しました。このゆうパックがUMNの事務所に届く時と、外国郵便局に留められる時とまちまちです。郵便局員の気分で来たり来なかったりするようですが、UMN迄来るときの方が要注意、チョコレートは必ずといっていいほどなくなっています。手数料が取られるのです、現物支給で。
黒ねこヤマトの宅急便の場合、空港税関に到着、何枚も何枚もの書類にサインしてから開函、そして中味のチェックがあります。一日ががりの引き取りになり、帰りのタクシーも空港からものは完全にみんなぼるタクシーでかなり不快指数は上がり、クタクタになって帰ってきます。
一九九三年の日本は冷夏のままで過ぎてしまったようですが、ネパールは雨季が例年より早くから始まり、約四カ月続きました。朝夕の空気がひんやりと爽やかになってくると、もう秋の訪れです。四月から六月まで頃がこちらの真夏で次に雨季、秋、冬、春の順にめぐっているようで、四季ではなく、五季か六季あるようです。
大通りから脇に百五〇m程入ったところにある私たちの住むアパート付近の朝の空気は美味しくて、それはもうたとえ様がないほどの素晴らしさです。大通りの方は騒音、スモッグ、埃で朝七時から夜の九時を過ぎてもまだ空気は汚く淀んでいます。自宅からパタン病院までの往復のみでマスクは真っ黒になってしまいます。
大洪水によって決壊した橋や道路も修復されましたので、ガソリンもやっと自由に買えるようになり、再びバイク通勤となりました。パタン病院における仕事の方も病理組織検査依頼が日を追って多くなり朝七時半から夜の八時頃まで、びっちり働く日も多くなり、なかなかの多忙です。
秋に蒔いたスウィートピーが三月の半ばから咲き出しました。ネパールのスウィートピーはなぜか赤紫が多いのですが、日本から持ってきた種ですので、家の庭にはピンクや白の花が沢山です。 乾季の水の少ない季節に良く育ってくれました。花も柳沢理子さんに、「このスウィートピー、マメー、ていう感じの花ですね。」と、言わせるほど、きれいに咲いてくれました。
近くに住むニュージーランドからの宣教師で、チベット難民に木工技術を教えているアンドリューとジャンは、スウィートピーの花束に大喜び。花の少ない時期に三十五年間ネパールに奉仕した看護婦のジョイスと息子のティモティ、彼のフィアンセ、アリスンを家のランチョンに招待しましたが、その時もスウィートピーの花束は大活躍しました。
タイではお米が余り美味しくなかったのですが、それに比べてダック・グルンさんがネパールで作る日本米、ササニシキは大変美味しく、さらにお値段も手ごろで、ネパール標準米の約二倍の一キロ八〇円です。タイから帰って美味しいネパール米でカレーライスを食べようという事になったある夕方、ふと、庭のスウィートピーの豆の袋が沢山目に入りました。「これ食べられないかな、白いご飯にスウィートピーまぜて。」「美味しいかも、スウィートピーというくらいだから、甘いんじゃない?」という事でその日の夕食は実験的にスウィートピーご飯。それが何とも美味しいのです。「花を十分楽しんで、実を食べて、スウィートピーの国に行ったら死刑だね。」なんて言いながら、次の日もスウィートピーの豆をせっせと摘んでいました。
ビーチサイドての一日の休日以外は朝から夜まで活発で緻密な討議が続けられました。特に日頃派遣先の言語の中にあるワーカー達もここでは母国語で存分に意見を交換し合う自由を感じ、毎夜スケジュールの終わりに持たれた「黙想の時」の新鮮さ、修養会や最終日講師から聖書を通して静かに語られたメッセージは日本語のメッセージに飢え乾いていた私たちの心に清く爽やかな水となり、再び任地へと帰っていく力となりました。
この間全員の食卓を担当、黙々と奉仕をして下さったJCFの河村さんの御夫妻の歴史を重ねてのご好意に感謝です。又本年三月で十二年間バングラディシュの海外ワーカーの任を退く畑野医師に至っては、これからのワーカー達のためにと思う親心にも似たアドバイス的意見発題等、彼を含むバングラディシュワーカー全員と事務局員による準備進行総括の労に深く感謝しました。 タイのパタヤビーチ、ビラナビンからバンコックを経由して、カトマンドゥ空港に降り立った時、何となく故郷に着いた感じでした。空港周辺の空気は爽やかでした。それにしましてもタイの素晴らしかったこと、タイを満喫して帰ってまいりました。特に恒太郎はテレビゲームのソフトを沢山買ってもらい、クリスマスとお正月と誕生日が一度にやってきました。娘康子も元気にワーカー会議に出席、黙々と台所の手伝いに励み、成長したところを見せてくれました。会議終了後バンコックに戻り、ネパールでは手に入らない食品や生活用品の買い物と、一日市内観光をし、日本語の本や辞書も買い込む事が出来ました。
一九九四年のSLC(SCHOOL LEAVING CLEARANCE、高校卒業テスト)のトップはガリマ・ラナ嬢十六歳で九一、七%をマークしました。女の子がトップも去る事ながらその取った点数が例年よりも数段高く、ラナ家の人々は大喜びでした。
パタン病院の部長会で赤ちゃんの取り替えが起こらないように注意をして下さい、という院長からの通達がありました。何の事だろうと考えていたら、産婦人科の部長が分娩室での取り替えを防ぐのは非常に難しい、女の赤ちゃんが生まれた時、その産婦のお姑さんが隣で生まれたの男の赤ちゃんを持っていってしまう事が良くある、という事でした。考えられない取り替え事件ですが、実際に無ければ院長通達もないわけで、非常に稀ではありますが、無いわけではありません。そこまでして男の赤ちゃんが欲しいのです。
インドのある州では生まれる女の子の比率が男の子の八五%になってしまったので、超音波性別診断を禁止したというニュースが伝わってきました。超音波で女の赤ちゃんだと堕胎をするからです。これも同じヒンズーの男子待望願望からきているようです。女の子が生まれると次の男の子が生まれるまで生み続け、男の子が生まれてもその子が死んだときの事を考えて次の男の子をすぐに生むわけです。男の子が全ての祭時の中心になるのです。
従いまして男の子が大切で教育も男の子には必ず受けさせます。ですから一番を逃した男の子の家族はSLCの採点の再チェックを依頼し、ガリマさんの点数の付け方に疑義を申し立てたといいます。ネパールならではの家の争いになってしまいました。
九州大学小林茂氏は彼の論文「ネパールの低開発と知識人」の中で以下のように語っています。「ネパールの低開発を引き起こしている三つの条件は一、ネパールの険しい地理的条件二、インドとの従属関係三、肥大した都市官僚行政機構です。
さらにこれらは低開発のみならず、都市と農村との格差をも広げ、役所間の連絡調整の不十分から開発計画の目標が達成できなくなっています。さらに貧困層に届かずエリート層を利する援助は、伝統的社会構造を強化し、経済発展を促進しません。 援助の増大は多額の資金の流入を招き、コンサルタントの指名、援助物資の輸入といった機械を通じ、汚職や腐敗が国教を越えてまで発展します。
また、インドから持ち込まれたカーストが上記の条件に複雑に絡み合い、反省のない独善的なヒンズー教徒高カースト男性が生まれ易く、彼らの働かない事について罪悪感を感じない事や、技術の軽視がこの国の発展にストップをかけます。
ヒンズー教徒高カーストでは男子が尊重され、女性の地位がきわめて低く、人生の成り行きがあらかじめ決定されており、教育も卒業資格を得るための物に過ぎず、文化的な保守主義が、発展とは無縁の方向にネパールを導く事になります。
しかし、ヒンズー教徒高カーストのイデオロギーに毒されない、勤労や協調を重んじる平等主義的な人々が存在します。彼らは山岳丘陵地帯に住む少数民族ですが、これらの中からカースト制度を打破する新しい世代が登場する可能性があるでしょう。」 以上小林氏の指摘は的確です。
日本のODAの入札における談合が報道されましたが、日本政府からくるお金でネパールに入るのは賄賂だけという話も聞こえてきます。ネパールに入っている外国の会社が全ての利益を持っていってしまうからです。しかしこれは日本のODAだけでなく、諸外国からの援助がすべてこの調子で、賄賂に関連する一部エリートのみが援助の恩恵を受けており、貧困層には届いていません。ちょうど秋刀魚を焼いて煙と匂いだけをあげる、というのと同じで、美味しいところは貧困層にはきません。
一九九五年共産党政権になってから東ネパールに建設が決まったアルンⅢ、予算が八百億円という大きなダム、これはネパールの電気事情からすると作らなくてはならないダムですが、このダムの建設でネパールの村々、動物達、植物達が大きなダメージを受けてはいけません。
ネパールの春はスイートピーのピンクの花で始まります。日本よりもちょっと早い春です。パタン病院も芥子やデージー、ぼけが一気に満開になります。 ネパールには日本の烏より少し小さい、頚の廻りがグレーのおしゃれな烏、ミヤマカラスが沢山います。いつものようにパタン病院の海草ベンチで海草ランチを食べていましたら(イギリスからの薬剤師、ジョセフィーヌが私達のお弁当を覗き込んで名づけたベンチとランチ)、目の前の、補乳瓶を洗うブラシの様な花をつけるボトルブラッシュという木の上で、一羽の烏がしきりに鳴いていました。その鳴き方がカーカーではなく、ビノービノー、とかピピピピ、とかピコピコなどとても烏とは思えない鳴き方です。私達はその烏にネパールではポピュラーなビノーという名前をつけました。ほかの烏は決まってつがいで木に来るのにこのビノーはいつも一人です。
ビノー、ビノーと呼ぶとピピピピ、とかピコピコとか答えてくれます。ジョセフィーヌを私達はジョと呼んでいますが、そのジョまでビノーに話をし始めました。「ビノー、海草はお好き?」なんてネパール語で聞いて大笑い。しかし、鳥とお話が出来るなんてアッシジの聖フランチェスコになった気分で、忙しかった日本では考えてもみなかった体験、感謝です。
ところでジョは彼女の十数年にわたるインド、ネパールでの仕事を終えて今年の十二月イギリスへ帰り、仕事は引退する予定です。「ジョ、帰りに日本へ寄ったら?、素敵な国だよ。」「どうして日本に寄れる?私の知っている日本人は二人しかいないのよ。その二人とも日本ではなくネパールにいるんですもの。」といって笑っていましたが、長い長い奉仕のプレゼントにきっと神様は彼女を日本へ招待して下さると思っています。
四千メートルの高地で棲息するヤクは千三百メートルのカトマンドゥでは生きていられないという事です。私の日本での研究テーマだった肺細気管支にあるクララ細胞の機能が特殊ではないか、とか何時の日かネパールの病理医とヤクの肺のクララ細胞を電子顕微鏡で見てみよう、などと一人で出来そうもない夢を見ています。
皆様は牛の目がとても可愛いという事をご存知でしたでしょうか。あの有名なディズニーの映画「子鹿のバンビ」の目、それを思い出して下さい。それをいくらか大きくした目なのです。静かでおとなしく、ゆったりとした動きは緒外国からの影響で目まぐるしい変化の真っ直中にあるカトマンドゥの路上にあっても、それがたとえ交通渋滞で激しい騒音と黒煙たなびくスモッグがいかにひどくとも、道路のそこここに我、意に関せずといった風に、あるものは天を向き又あるものは瞑想さながら、しかし口だけはモグモグとゆっくり反すうしながら悠然と立っているのです。
二年前に比べればグンと数は減りました。彼らの習性というのか飼い主が近くにいるからなのか、たむろしている場所は大体決まっており、この通りにはあの牛の群れ、この通りにはこの牛の群れと大抵決まった場所におり、顔ぶれ特徴などもお馴染みになると、当初は邪魔だなあなどと思いながらバイクを走らせた事もあったなど、うそのよう、現在は路上で彼らに会わないと一抹の寂しさを、しかし次の日に会えばフムフムこれでよいのだと心に安堵感を覚えるようになってしまいました。 出勤時、象の横を走り抜けるときは少しばかり嬉しく、豚に出会えば、よくもまあこれほど汚れられるものだと感心しながら走り、犬は、といえば路上に四本とも足を投げ出しておおらかに昼寝をするという具合、こんなところでそんな寝方をしたのでは車や人に足を踏まれても少しも不思議ではないと思うのです。そして注意してみれば足の不具犬がやはり多いのも当然であろうと思うのです。時代の変化、特に人間社会の発展に対して動物達までは同じ歩調で順応出来ないでいるのが、特に犬に見られるように思うカトマンドゥです。
カッコウの声で目覚めるなんて、何と素敵でしょう。土曜の朝は目覚まし時計はストップ。その替わりをカッコウが務めてくれます。他の鳥の巣に托卵した後なのでしょうか、「みなさーん、起きて下さーい、今日も素敵な空気ですよーー」とでも云いたげに、喉から胸を二回づつ膨らませながら「カッコー、カッコー」と鳴いています。階下にオーストラリアから越してきたジョンも「昨日、クックーが鳴いていましたね。」と大喜びでした。
ジョンは腰痛を腎結石と自分で診断し、診察を依頼してきました。インターサーブというヨーロッパ、オーストラリアを中心にした宣教団体の代表者です。今回は奥様のアリスンがUMNで働く事になり、彼女についてネパールに来ました。彼の腰から足までの痛みは筋肉痛で、結石特有のものすごい痛みではありません。どうやら引っ越しの重い荷物を運んだ為に腰を痛めたようです。痛み止めの投薬で治ったジョンはすぐに、韓国へとインターサーブの仕事に出かけて行きました。
鳥の声はネパールどこへ行っても聞く事が出来ます。一度カリドゥンガという山間のゲストハウスに泊まった早朝、鶏の声で目を覚ましました。時計を見ると未だ四時半、まだ起きるには早い、もう一寝入り、と思いましたが鶏か又コケコッコーと鳴きます。ネパールの人はククリーカと聞こえるようですが、このククリーカで寝つけません。しかたなく時計の秒針とにらめっこしながら何秒おきに鳴くかを測ってみましたら、約二五秒でした。従って二度鳴くまでに、即ち約二五秒間に、ペテロは三回主イエスを知らないと言った事になります。(マルコ一四章七二節)
六五才を越えてもなお主イエスの声を聞いてすぐにこの国にやってきたリードご夫妻の、この国のために働こうというガッツには本当に頭が下がります。凸凹の道に足を取られて転んだり、教会へ行く道を見失って一時間も探したあげくに隣の教会まで足を伸ばしたり、友達の家を探しに探した上、見つからずに帰ってきたり、引っ越し早々泥棒に入られたり、下痢に腰痛と、大変です。しかし神様は彼らにカッコーの声をプレゼントしてくれてました。「よーこそネパールへ、クックー、クックー、」と鳴いています。