ヒサアサオカ、ベッティヤングと一緒にサネパチャーチに出席しました。UMNの関係者が多く出席していますが、ほとんどネパール語の賛美と説教で、最初は皆目分かりませんでした。ネパール語の研修が進むにつれて言葉の端々、賛美の部分部分が分かるようになり感謝ですが、肝心の説教の方はまだ理解できません。分かった単語と雰囲気と日本語の聖書からだいたいの筋をとらえています。ただ賛美歌をたくさん歌ってくれます。一時間半の礼拝の中で約十曲は歌います。説教は四〇分から、一時間半になったり、まちまちです。
教会からの帰り道は畑の中の細い道を歩いてきます。鄙びた田舎道、途中ひよこをつれた鶏に挨拶し、昼寝している犬を跨ぎ、牛のよだれをよけながらカトマンドまでおりてきます。バグマチ川の橋をわたるとタパタリのショッピングセンター、といっても殆ど道端に売り物を置いて売っている人達の集まりですが、一袋六ルピー(十五円)の切り干し大根、自転車やオートバイの部品、山羊の肉、自転車にローソクを積んだお兄さんなどで道の両側は賑わっています。この中の小さなアクセサリー屋さんには、プリ(左の鼻翼につけるピアス)、ムンドリ(鼻中隔のピアス)、タップ(耳のピアス)、腕輪や指輪が並び、そんな店をのぞき込む女性達の服装も土曜日はきれいになり、カトマンドの町は郊外からの買い物客で賑わいをみせます。
バグマチ川の橋は最近交通量が多くなり、現在もう一つ別の橋を増設中です。殆ど手作業で川の水の少ないこの時期に突貫工事をしています。水のない川辺には何頭もの水牛がゆったりと、この工事の見物です。この工事とは何の関係もないかのように、人々は川で水浴びをしたり洗濯をしています。時々川辺に水牛の死骸、皮と骨と角だけの死体が横たわっています。人間の死体も川から流されるという話を聞きました。川が生活の重要な場所なのですが、ゴミは川に捨て放題、汚水は流しっぱなしで、汚染はかなり進んでいます。
マダムポカラの水道はカトマンドとは異なり、山の中腹に湧き出ている泉から水を引いてきていて水自体はきれいな水です。ただ日本と違って食事の工夫が全くなく、食欲はなくなり、困り果てていた頃、別の家に滞在していた仲間のヒューからタンセンに行く予定を一日早くしないかと持ちかけられ、すぐにその話に乗ってしまいました。マダムポカラには教会がないのでイースターはタンセンの教会に行く予定にしていたのです。
タンセンには岩村昇先生の働いていた山の上にある病院もあり、病院の裏にUMNのゲストハウスがあります。そこにはコーヒーもあったかいシャワーもありました。キィッシュの夕食、デザートにはフルーツアイスクリーム。思わず「夢みたい」と、恒太郎。「つねってみな、夢だから」といったら本当につねってみたくらい夢のような一時でした。食後はビデオで「WHITE FANG」。横須賀で一緒に暮らしていたロンに似たボクサーが出てきて涙、涙です。
翌朝、恒太郎がどうしても買いたいと言い出した手づくりのネパールハウスの置物を買った事によって知り合ったゲストハウスのお嬢さんが、な、なんと、驚いた事に岡村しのぶさんのイギリス時代の同僚生ランジャナシンハさんだったのです。ひととき、しのぶさんの話で花を咲かせましたので多分日本で今ごろ風邪にでもかかっているのでは・・・・? 彼女は近々カトマンドに出てきて看護学校に入るようです。 タンセンには上と下の二つの教会がありましたが、上の教会の方に出席し、イースターを迎えました。ギター、ドラムス、タンバリンの伴奏での軽快な賛美歌がイースターを祝います。ブータンから来ていたユースAミッションのメエアリーシャルマさん一行の賛美、寸劇や証しなど楽しい礼拝でした。詩篇八一篇二節「声高らかにほめ歌を歌え。タンバリンを打ち鳴らせ。」の世界です。若い説教者もギターを使い賛美しながらの楽しそうなメッセージでした。司会をしていた年輩のデブシンダハールさんは岩村昇先生の事をご存知で、懐かしそうにお話ししていました。
礼拝後ラシュミやシュラジにおみやげを沢山買いこみ、モダムポカラには茶色の卵しかないのでタンセンで白い卵を三〇個買って帰ってきました。ラシュミやシュラジやウルメラおばさんとゆでた卵に思い思いの絵を書いた後、恒太郎とラシュミが庭や家の中に隠しました。マダムラージャおじさんが学校から帰ってくる時間を見計らって卵探しの開始です。みんなきゃっきゃっ言って探しましたが一つだけどうしても出てきません。隠した人もギブアップ。イースターの卵の意味がイェスさまの復活を示す事を話しながら、唐辛子(コルサニ)の入った塩でその卵を食べました。みんなが食べ終わってもとうとう卵が一つ出てきません。ネズミ達に思いがけないイースターのお裾分けです。
最近私たちは家の近くの教会に通い始めました。この教会は出来たての教会で、開拓一周年の記念ティパーティを一九九三年七月三一日に行いました。いつもの礼拝は二〇人ぐらいです。個人の家の二階二間続きを借りて礼拝を行っている家の教会ですが、間仕切りの壁を壊してワンルームにしたところ、急に礼拝出席者が倍加して、三五ー四〇名になり、喜びが溢れました。この教会は五、六人の人の証しが毎週あり、祈りの課題をあげてみんなで祈り、説教者も長老格の人が交代であたり、時としてネパール語の堪能な外国人にも説教の番が回ってきます。受洗者も年に五、六人起こされています。現在新しい教会堂を建てようとがんばっています。
スニータはお菓子とケーキを沢山作って教会の誕生日に備えました。
恒太郎は二ヶ月に及ぶ長い夏休みですが親達二人が多忙の中にあったため、特にどこかへ連れ出したり、一緒に出かける事が出来ませんでした。ところが宮崎伸子さんを支える会、とくに横須賀の長沢教会の方々のワークキャンプの一行二八人が日本から到着され、アナンダバン(カトマンドから車で約一時間の山の中)のレプローシーミッショントレーニングセンターで一週間、共に寝泊りをして、そこにある伸子姉の勤務するハンセン病院内のさまざまな労働奉仕に励まれるという事でしたので、この機会に私達も家族で参加させて戴き、一週間、久しぶりに日本語の中に漬かり充分に楽しませて戴きました。長沢教会の方々は、まず第一に日本を出る際アナンダバンのらい患者のためにと、個々のスーツケースに詰め込んだ衣類(約六百-七百㎏)を持ち込みました。おそらく自分達の物は機内持ち込み分だけの最小限に止め、出来る限り患者さんを第一にされたようでした。広いトレーニングセンターのホールの三分の一はこの衣類と月星シューズ会社からの献品の靴で数日間埋まりました。一行の女性の半分はこの衣類の分別に従事、残りの女性は患者さんとのコミュニケーションに病棟へ出向き編み物を教えたりしました。患者さんたちが製品化したものを市場に出す事によりわずかながら収入を得、彼らやその家族のための貴重な財源となります。又、子供達には折り紙や綾とり遊びを教えました。男性陣は連日にわたりトイレを始め病棟のペンキとラッカー塗りに精を出し、さらに従業員やその家族のリクレーションのために、持参したバスケットボールのリングを立てたり、作業はどんどん進みました。恒太郎を含む中学生以下は剥がれかけた古いペンキや苔を落とす作業に従事、病院側の要求に応じて全員が精いっぱいの労働奉仕をしました。一行の責任者三塚兄姉をはじめ婦人の方々の細かい心配りもさる事ながら各々が緻密な計画を立ててこのワークキャンプに望まれた事が判りました。時間を有効に使いつつ、食べる楽しみやおしゃべり、買い物の楽しみをも加えながら、又病院勤務のドクターや近隣の人々を招いての日本ネパール双方の料理を整えてのパーティも主催されました。さらに院内勤務の方々との朝礼拝、患者さんと共に夕礼拝、ネパール人の家での婦人の集会への参加等など積極的に集会に加わっていました。患者さんへの衣類は性別、年齢別に仕分けされまず全員に一着づつ渡された後、残りは一旦倉庫へ収納されました。これはクリスマスのプレゼントとして寒くなる頃に患者さんにもれなく渡されます。月星シューズのほうはすぐに従業員に配られました。彼らは新品のその靴をどれくらい嬉しそうに大切に胸に抱えていたか、お見せしたかったほどです。雨の中裸足でもらいにいき、裸足で帰ってくる彼らに、どうして履かないのかと聞いたら、新しい靴が濡れるから、という返事でした。
夕礼拝に於いて一行の一人佐々木幸子姉の証しがありました。彼女は三年前に入信、現役の看護婦さんで七一才。その輝き溢れた人柄はまわりにキリストの香りをまき散らすようでした。彼女は一行の日本帰国を見送り、一人アナンダバンに一か月半残り、宮崎姉と同居、らい病院のお手伝いをして帰られました。宮崎さんがひどい風邪にかかかって寝込んだときも彼女が伸子さんのお世話をして下さったと思われます。日本の食事がなかなかとれない現実を良く知り、ネパールにおられる内にせっせと作ってくださったカルシウム豊かなでんぶをおみやげに置いていって下さいました。彼女は、長期に渡るご自分の日本での看護業務を締めくくる記念としての参加です、と言っておられました。彼女への神様からのさらなる祝福と御主人の健康を祈ります。
私たちも習いたてのネパール語で通訳のお役に立てばという思いの参加でしたが、果してどの程度お役に立てたかは判りません。恒太郎は一行の中の同年代の少年達と意気投合して労働も遊びも十二分に満喫できたようです。彼らの空になったスーツケースには伊藤邦幸先生依頼の大量の本を持ち帰る事になり、制限キロ数いっぱいに積め込みました。
このワークキャンプの間中毎日雨、一行が待望していたヒマラヤをなかなか見る事が出来ませんでした。でも若井道子さんの食前の感謝の祈りに「ヒマラヤを見せて下さい。」が入っていましたので、いつか神様は見せて下さる、と思っていました。やっとヒマラヤがその姿を見せてくれたのが帰りのバスの中だったようです。一足先にカトマンドのアパートに帰った私達も、初めてその姿を見ることができたと言うニュースを聞いて大喜びしました。たぶん、帰りの機中からも雲の上からはきっと眺望できたと思います。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。伝道者の書 三章一一節」
晴れ間に見えた青空の美しさや夕焼けの素晴らしさ、これらは物も言えないような感動を与えてくれたのでした。深々と緑に包まれた最も空気の美しい喜びの森という意味を持つこのアナンダバン。患者さんたちの心の苦しみや貧しさ、その背景をじかに一人一人が目で見て確かめて共に祈り合い、励まし合い、働き、心が通じ合った事、仕事の合間に一行の中で長沢教会牧師坂田師による数回にわたるキリストを語るメッセージは聞く患者さんの目に涙があった様です。又一行の一人一人の人柄や個性の豊かさに触れさせていただいた事、皆さんが示して下さった私達への心遣い等々、私達も喜びの中に過ごす事が出来ました。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことはなんというしあわせ、なんという楽しさであろう。詩篇 一三三篇一節」
クリスマスにはついにスモッグのカトマンドを離れ、空気がきれいで静かな町、牛も犬も少ないタンセンに家族で出かけました。タンセンには岩村昇先生が働いておられたUMNの病院があります。久しぶりに語学研修仲間でスコットランドから来ているドクター・ヒュー・グレイ一家と共にクリスマスを過ごしました。六ヶ月ぶりに再会したグレイ家の二人の女の子、アナとメーガンはよくおしゃべりをするようになり、すでに歩き始めた男の子、ヘミッシュの可愛さは一入でした。彼らと共にタンセン上教会(タンセンには上と下二つの教会があります)のクリスマス礼拝に出席しました。お昼は教会前の広い庭でダルバートの愛餐会です。タンセン病院の先生方と沢山お話をしました。ふだん検査依頼紙と報告書の紙の上でのおつき合いのみでしたが、難しかったケースとか病理診断意義アリの症例などの話も出てなかなか楽しく、しかも厳しい愛餐会でした。
午後帰宅を決め込んでいた私達でしたがヒューの指示に従って翌日、病院の車でポカラ経由で帰ることにしたため、またゲストハウスに逆戻り、そこには、タンセン病院の院長さんが待っていて、病院中を案内して下さいました。かなり古くなってはいますが、清潔で整頓されており、ミッション病院の雰囲気です。岩村昇先生も勤めていらした病院ですから特に感慨深く見学しました。検査室も小さいながら充実しており、特に細菌室はコンパクトにまとまっていました。
その夜はグレイ家のクリスマスディナーに招待され、シャーリーの作ってくれた七面鳥ならぬチキンの丸焼き、クリスマスプディングを食べながらお互い一年間守られた事を感謝しました。そして極めつけは日本では味わうことのできないアイルランドのミントチョコ。これはシャーリーのお母さんからのプレゼントでした。これ程美味しいミントチョコがあるとは驚きでした。
一九九三年一二月二八日火曜日所沢福音キリスト教会の稲尾三活先生と寺田宏兄弟が、バングラディシュの教会建築、宣教ツアーのついでにネパールにまで足を延ばして下さいました。カトマンド到着後すぐにアナンダバンのハンセン病病院へ直行し、患者さんを慰問、夜の病院礼拝の証しとメッセージをされました。私達も同行して半年ぶりのアナンダバンを楽しみました。カトマンドから二五キロしか離れていないのに、空気は美味しく、水清し、です。ゲストハウスで恒太郎は、オーストラリアからのエレクティブの医学生さんや、インドから休暇で遊びにきていた看護婦さんと英語の言葉作りに燃えました。かなり頭を使ったようで翌日は智恵熱でダウンです。
チャパガオンのくねった道を眺めながら再びカトマンドへ下りて、パタン病院のクリスチャンフェローシップで、寺田さんの証しと稲尾先生のメッセージ。三年前には考えられなかった宣教活動です。稲尾先生の英語のメッセージをドクター・ホンがネパール語に訳してくれましたが、寺田さんの日本語の証しは私がネパール語にしなければならず、大汗をかきました。しかし、記念になった初めての通訳です。
三〇日はナガルコットからヒマラヤを眺め、バクタプールとカトマンド市内を散策し、夕方からクップンドールの私達の家で日本人集会を持ちました。 三日間のカトマンド滞在中に三回の説教とその間の観光、どこのツアー会社もアレンジできない宣教ツアーで、正しく神様がアレンジされたツアーでした。そして、この旅行のために多くの祈りが捧げられていたことは言うまでもありません。
多忙中の三塚氏を、「これを読んではいかに多忙でも引率リーダーを引き受けざるを得ない。」と、感動させた中高生の作文、彼等の今回のワークキャンプ参加動機の文集を、私達は彼等のアナンダバン到着後に読ませて頂きました。その中から、今時の、そしてこれからの世界を担って行こうとする若者達の逞しい精神を、まず文字を通して見、次には共に働く事において体験する事となりました。その九日間を通して彼等各々の見せてくれた優しさを少し書きたいと思います。個人差は別にして私が思うに第一にそれは彼等は観光にやってくるのでは無く、自分で貯めたお金を使ってハンセン病院の労働奉仕に参加という形でやって来て、次いで惜しみ無い労働という形になり、白ペンキ塗り乾燥後エナメル塗りの工程が終わりに近ずくと、予定外の緑の枠塗りもやりたかったと嘆く程の打ち込みかたとなりました。聞くところによりますと今回対象になった男子病棟はこれまでずっと後回しにされ続けていたようです。ちなみに成人の方々による前年度のワークキャンプでは婦人病棟やその他の病棟などが、どうしても優先されていたという事らしく、そのような中で最上階の暗く寒い部屋が一気にして明るく様変わりしてゆくのを目の当たりにした患者さんたちはどんなに嬉しい思いで作業の進行を見つめていた事でしょうか。
日本でのJOCSの研修会でハンセン病について説明をきちんと受けてきた事が患者さんの前でも落ち着きとなって表れ、それは彼等の屈託の無い明るい性格と共に患者さんたちやスタッフの人達との交流にもよく表れておりました。夕食後には折り紙作業にいそしみ、全部で四百四〇の小花を折り上げ十一個の房付きのくす玉をこしらえました。病棟十一部屋全部に美しい置き土産となったくす玉は今もきれいに飾られているそうです。
カトマンドではわずか一時間のみの自由行動の中でも、まずは家族の土産をと走り回っていた彼等、果たして自分の為のお土産はどうなったのでしょうか。
参加動機の作文通りアジアに住む者として同じアジアをより深く知るために外側から自分、そして日本をみつめてみたいという願いを持っていた彼等はこれらの体験を通し、どの様に視野を広め感じとったのでしょうかは私には判りませんが私の息子の恒太郎の為や貧しい困っている人の為にと彼等が残して行ってくれた物と心について感謝したいと思います。そして今、又、すぐに皆に会いたい思いです。
若いパワーと明るさに日本の力を感じました。自主的に参加したとはいえ仕事に遊びに生き生きとした若者の生命力が感じられた時でした。同じ年代のネパール人のアルバイトの子と数カ月仕事をした事がありますが、やはり何か差を感じます。この年代は何をするにしても初めての事が多いのですが、日本の諸君は工夫を凝らし、短期間で仕事を自分の物にしてしまいます。さらに自分のしたい事にまっしぐらに進む気迫も頼もしい限りです。ネパールの若者の全てが無気力というわけではありませんが、何かにつけて他人を、他国を頼りにする事が身に染みているのを見る時、かわいそうになります。
若い彼等と違い壮年の域にある私達にとってはアナンダバンの宿舎から作業場やオフィスに登る階段の往復、一番多い時で四往復は、きついものでした。冷えも手伝い、後日疲れが癒えるにやや日数がかかりました。しかし、本当に充実した良い時でした。 この体験を大事にし、この次は手に技術をたずさえて、もう一度ネパールへ来てくれたらと期待して待っています。
内藤良江師の昇天は悲しい限りの出来事でした。私達との三〇年前からの友人で海外宣教の重荷を持っていた仲間です。一九九四年六月三〇日所沢福音教会の婦人祈祷会でお会いしたときは若い時と同じ笑顔で、「木村さん、夢がかなって楽しいでしょ。」「伊代住さん、楽しい事ばかりじゃないよ。今は助産婦さんやってないんでしょ、もったいないな、ネパールに来てよ。」と、いつまでたっても旧姓で呼びかける私を、内藤牧師も顔全体で笑いながら眺めていました。
それから二ヶ月後に発症し、胆嚢癌と診断され、さらに二ヶ月後の一一月一六日天に召されたという悲しいFAXを受け取りました。 「そうか、伊代住さん、我々のことが心配でネパールに来てくれたのか。」と悲しい気持ちを抑えていました。
内藤牧師から送られた昇天記念献金はネパールの為になるものをと、考えました。しかし、教会建築はネパールがヒンズー教国である為に教会の名目では建築許可が下りない事、昨今の狂乱地価高騰は話にならないほどの物で土地を買うには大金が必要な事、さらに牧師が教会よりハンディキャップセンターを作り、完全な宗教の自由が得られる機会を狙っている事、などから困難なようです。
それに対し、ネパール語英語の対訳聖書はまだ作られていません。私達の目はこれに向けさせられました。最低二千冊、一冊三百円で約六〇万円です。
カトマンドに帰ってくるとすぐに仕事も学校も始まり、多忙の中に浸ってしまいます。 ところで帰宅した次の日、カンボジアワーカーの柳沢理子さんがわが家に泊まりがけで宮崎伸子さんと一緒に訪問して下さり、そこにバンコクからの初めての訪問客バンコク日本人クリスチャンフェローシップのメンバー五人も合流し、ワイワイガヤガヤと狭いわが家で楽しい時を過ごす事が出来ました。
柳沢理子さんも宮崎伸子さん同様ワーカーとしての働きの締めくくりの段階にあり最後の休暇はネパールのポカラ地方を楽しんでの帰路でした。彼女達の引き揚げの準備がうまく運びますようにと願っています。
さてネパールも気候は夏に向かってジリジリと暑くなっております。雨季前の乾燥した粘土質の土は石のように堅く畑の草抜きもままならず、上部をねじり鎌でかき取るしか出来ません。しかしタイと比べて何という湿度の違いでしょう。こちらは太陽の下では焼け焦げるという程に厳しい暑さですが、木陰や室内はサラリと涼しいのです。そしてタイの湿度の高さに驚く以上にバングラディシュの湿度の高さはもっとすごいようです。ですからそのような地でJOCSの川口恭子さん、東海林朱美さん、岩本直美さんの三人のワーカーが現に働いておられる事に頭が下がります。
一九九五年五月二四日に海外総主事の若井さんがネパール入りされ、わが家に宿泊、宮崎伸子さんも十四年に及ぶレプロシーホスピタルでの働きを終わるに当たり、わが家でに夜遅くまでみんなで共に語り合いました。若井さんには東京事務所に託してあった「共に歩む会」からの品物、バングラデェシュ経由でしたのにあの重い荷物をすべて運んで頂きました。
さて若井さんや宮崎さんにはこれからはなかなかお会いできなくなる訳で、寂寥間の中にある私達です。けれども神様は宮崎さんの代わりに安田ファミリーをお送り下さいました。ドクター安田は一九九六年からタンセンで一般医(GP)として働きます。更にその上、吉持厳信さんファミリーもネパールへ導かれました。彼は外科医でTEAMの病院に派遣される同盟教団からの医療宣教師です。私達の役に立つ限りにおいて彼らにこちらの状況と必要な物の情報を提供する役目を負っております。
そしてとうとう五月二六日、宮崎伸子さんは日本へお帰りになってしまいました。本当にお疲れさま。ゆっくり休んで下さい。さあ私達も前に向かって体を伸ばさなければなりません。
アナンダバンレプロシーホスピタル、ここで甲斐々々しく働く白衣の「のぶディディ」。人々は伸子さんを尊敬をもってこう呼びます。ハンセン病という重い病を背負わされた人々の、どうしても暗い雰囲気になりがちな中にあって、一吹きの風のような爽やかさを漂わせ、きびしさと優しさの両面をきちんと持ち合わせた「のぶディディ」でした。
彼らが「ディディ」と彼女に呼びかけるときの声の温かさは、まるで子供が信頼を置く母親に対するようで、ほのかに温かい情景を作り出していました。白衣を脱いで町に出ても、路傍に座る物乞いの中に退院患者がいないかどうかを確かめるようであり、出会えばしゃがんで顔をのぞき込み、適切なアドバイスをする彼女、それに対して彼らは、すがりつくように喜びを表現するのでした。
日本と違い時間も全てがゆるやかに流れるネパールといえば、おおらかで何か素敵に聞こえるかも知れませんが、決してそうでもなく、なかなか難しい世界なのです。異文化での生活、気候、水、食文化、習慣、言語の違いなど、初めの頃はどんなにか苦労が多かった事でしょう。一四年間黙々と彼らに仕えた彼女を見るとき、聖書の中のキリストの言葉が浮かんできます。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしにつかえる者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人にも報いてくださいます。(ヨハネ 十二章二六節)」この言葉を素直に実践した「のぶディディ」の上に、これからの新しい任務の上に、神様の祝福が豊かにありますように。 アナンダバンの人々と出会うと、みな決まって同じ言葉、「のぶディディはいつ来るの?」