インドと中国チベットとの間にあるネパール王国の面積は十四万Km2、北海道の二倍、人口は二千万人です。万年雪のヒマラヤ(ヒマラヤは雪の棲家という意味)山脈、中央部の温暖な山岳地帯と、タライ地方と呼ばれているインド国境域の熱帯地域の三地域に分けられ、都市は主に中央の山地に散在しています。この中央の山地にある首都カトマンドゥには百万人が生活し、外国からの出入口もほとんどここに集中しています。日本との時差は三時間十五分で、「インドとは違う国ですよ、」と言うかのようにインドよりも十五分早くなっています。日本のランチタイムが仕事始めです。
公用語はネパール語ですがその他に十五もの言語があり、聖書もネパール語、ネワール語、そしてカリン語三二種類に訳されています。ネパール語はサンスクリット語やヒンディー語と同じデヴナガリー文字を使っていて、語順がほぼ日本語と同じです。英語でネパール語の講習を受けると、まずネパール語を英語にし、その英語を日本語に訳します。ネパール語と日本語は語順がほぼ同じですので、ネパール語から直接日本語を学ぶ事が出来れば非常に楽です。敬語も日本語に近く納得のいくものです。男尊女卑の風潮が言葉の中にも入ってきているのも否めません。レディファーストのイギリス人、特に御婦人方は少々不満のようではあります。
識字率は三四%と低く、修学率も高くありません。学校の始まる時間がまちまちで九時半ごろ通学している所も希ではありません。ネパール時間には結構慣れましたが、一日二日延ばすのは早い方で、全てが週単位、月単位で動いています。我々のネパール語の先生も結構遅れ気味でしたので、こちらのペースにだんだん変えていきました。日本のように小学校から時間に厳格なことは後々まで大きく残るものだという事を痛感しています。
埃とスモッグのカトマンドゥを一歩外に出るとすばらしい田園と山々があります。緑の多いネパールに主は導いて下さいました。「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。詩篇二三篇二節」ネパール語では「いこい」という句の中にスカとチャインという二つの幸福という語が入っているとの事です。何とも欲張りですがそんな幸福がネパールでは味わえるのかも知れません。
紀元前五六三年ブッダが生まれた頃がネパールの始まりで、紀元前三八年がネパール歴の一年です。リッチャービ王朝(四世紀)、マッラ王朝(一三世紀)を経て、ゴルカのプリテビ・ナラヤン・シャハ(一七六九)が権力を握り、鎖国が始まりました。現在もこの王朝が続いている王国です。一九五一年トリブーバン国王の時代に二百年間の鎖国を解き、義務教育も始まって識字率は一九九一年で三四パーセントに達しています。
三千年の歴史を持つネパール、しかし国自体が貧しいためにすばらしい建築文化財も放置され荒れ放題という感じがします。ごみをあさって生活を立てている人二千人という数字は悲しい現実です。カトマンドゥ市内は埃っぽくバスは黒煙をあげて走り、クラクションの騒音は静かな日本から来た私たちの耳には時として苦痛です。スモッグで、いつも濁った空気のカトマンドゥの町には村々から職を求めてきた人達でごった返し、職の無い人達が昼間から遊んでいたり、学校に行かない子供達でいつもにぎわっています。
人々の生活、カースト制度の中に生きる彼らの生活を一口では言い表す事は出来ません。この制度は極端なほど貧富の差を生み出していると言う現実を目の前にして、何をすべきかは何千年の歴史の中からしか見つけ出せないでしょう。
緑の田園の中に赤煉瓦の家々、これらを囲むように雄大な山々がそびえるネパールも五月から九月の雨期に入るまではよい天気が続きそうです。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。主よ。この目をあけていただきたいのです。マタイ二〇章三一~三三節」
ネパールのキリスト教史を簡単に記しておきましょう。一九五一年にトリブバン王が政権を握り鎖国が解けました。北インドで理科の教師をしていた鳥類研究家ロバート・フレミング博士が医師であるベテル・フレミング夫人と共にネパールに入り、ダグラス・カール・フレドリックス医師と共に医療団として一九五四年ネパール合同ミッション(United Mission to Nepal,
UMN)が形成されました。しかし宣教活動は厳しく規制され、キリスト教の直接の宣教は出来ず、医療や技術で間接的に援助し、キリストの愛を実践する形でキリスト教宣教に貢献してきました。タンセン、カトマンドゥ、ゴルカ、オーカルドゥンガに病院を建設し、高校、工業高校、女子高校、看護学校、農業指導、機械技師訓練、ベニヤ板工場、発電所、架橋工事、等の幅広い技術提供を行ってきました。日本人のUMNへのかかわり合いは一九六一年からで、上田喜子、川島淳子、岩村昇、岩村史子が日本キリスト教海外医療協力会(Japan
Overseas Christian Medical Cooperative Service,
JOCS)から派遣されました。一九六九年から伊藤邦幸、伊藤聡美がオカールドゥンガに、俵友恵がチャパガオンに派遣され、一九七三年に桜井正恵が、一九七八年には前田迪代が派遣されています。UMNには日本キリスト教団から一九六七年に塚田智子が看護学校の寮母として赴任し、一九八〇年から高津亮平教師夫妻が派遣され、一九八二年からアンテオケミッションから森敏夫妻がオカールドゥンガ近郊で農業指導にあたりました。JOCSからはUMN以外にザレプローシーミッションを通して一九八二年から宮崎伸子がアナンダバンのハンセン病院で奉仕をしています。
ネパール合同ミッション(UMN)は十七カ国三九キリスト教団体からなる共同体で、全て何らかの技術を身につけているクリスチャンのネパールへの技術援助を行う事を目的としています。一九九三年現在ネパール全土に二百人ほど働いています。このスタッフと一緒に働いているネパール人は約二千人です。
一九九一年からキリスト教の牧師の入国や信教の自由が認められ、教会も公に伝道が出来るようになり、クリスチャン人口も増加しています。しかし、ヒンズー教の力は強く、カースト制度も政治、教育、文化の中に依然強く残っており、町行く多くの人々の額にはティカという赤い印が付いています。ヒンズー教のお寺も多くの人々の信仰の対象となり、神の乗り物とされている牛は道路を悠々と歩き、天国の門番役の犬も大切にされています。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。詩篇三四篇八節」
一九九三年一月三日午後二時、雪に覆われたヒマラヤの山並を眺めながらカトマンドゥに到着しました。途中ダッカ空港が霧のため着陸できず旋回したため、一時間遅れの到着です。到着遅れで税関も少しナーヴァスで、「電気製品はあるか?」位の質問で済みました。「生活に必要な物しか入っていない、」という答でパスです。
ヒサ・アサオカの出迎えをうけ、UMNのゲストハウスに落ち着きました。持ってきた荷物で何とか当座は間に合いましたが、レンガ造りの日の当たらない部屋は寒さが一段と厳しく震えていました。電気ストーブはつけると同時にショートしてしまい、ヒューズを取り替える騒ぎ。日本ではブレーカーが落ちたことはよくありますが、ヒューズを気にしたのは二、三〇年前だったでしょうか。朝晩は冷え込み、湯たんぽを買って寝る始末。さしあたっての仕事は早くネパール語に慣れること、恒太郎と一緒にネパール文字をコンピューターに登録しました。一日二時間半の停電と、水道水の煮沸、ろ過をマスターするのに手間取っていましたが、、停電になると汲み上げるモーターも停止しますので、断水になった上、トイレの水も溜まりません。もちろん、ローソク生活は恒太郎にとっては生まれてはじめてです。夕食は一日おきにローソクです。シャワーも太陽熱システムで、雨の日など太陽の出ない日はお湯が出ません。ですから出たときのお湯の味はもう格別です。
息子の恒太郎はインターナショナルスクールに通い始めました。なかなかいい学校ですが、英語とネパール語を一緒に覚えなくてはならず大変です。彼もカトマンドゥにきて一週間目で腹痛と頭痛で寝込みました。でも三十数時間寝続けて、「もう直った」といって読書をしはじめ、五百頁もある長編もあっという間に読んでしまい、次はシャーロックホームズと、電気のない生活の中で読書という新しい趣味を発見しました。 夜はアメリカのミシガンから来ている我々のボスのメツラーさんや、コネチカットからのヒサさんから夕食のお招きを受け、寂しさも吹き飛びました。トロントからきているマースさんご夫妻も会う度にゆっくりとした英語で、大丈夫か、何か問題はないかと声をかけてくれます。世界各国からいろいろな職種の人達がここネパールにやってきて、励まし合いながら、仕事をしています。
一月八日から三日間行われたタクシーのストライキも終わり、どこへ行くにも楽になりましたが、なにもかもゆっくり動いていてペースがなかなかつかめません。一日に何か一つできれば満足しなければならない状態、全て御心のままです。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みをうけたのである。(ヨハネ一章一六節)」です。
カトマンドゥの約二〇㎞南にある小さな村、アナンダバンにネパール語特訓チームでリクレーションに出かけました。普段両親の猛勉強のためリクレーションがおろそかにされている子どもたちのために。貸し切りバスは満員御礼。凸凹道に飛び跳ねるバスも苦になりません。山あい、川沿いにある素敵なロッジ。子供達は、ネパールのサリーの着方を習ったり、着付けをしてもらったり楽しい時を過ごしました。昼食の後大人達と一緒に軽いトレッキングです。途中でとうもろこしの芯、鳥の羽根、川の石を二個見つけて取ってきたり、十才以下のネパール人とお話をして名前と年を聞かなければなりません。川をわたり、山道を昇って行きました。
山の上からジープが何台も下りてきます。挨拶をしようかなと思ったのですが、何となくみんな暗く、そういう雰囲気では有りません。一緒にトレッキングにきていたドクターに聞いたところ去年のパキスタン航空機の墜落現場がこの山の上にあり、慰霊祭をしに来た人々だったようです。喜びの森ではなく、悲しみの山になってしまったのですが、日本にいた頃、ヒコーキ事故が多いのでネパールに行くのはやめろやめろと友人からいわれたのを思い出していました。
仲間とこの森を歩いているのはまったく不思議です。神様はいろいろな国からいろいろな方法で、働き人をかり出しているなぁと、感心せざるを得ません。仲間とは英語で話し、途中のネパール人には片言のネパール語で語りかけ楽しい時を過ごしました。福音のために世界中から駆り出された一人一人にとってはどこの森も喜びの森です。
山間の沢を下りてゲストハウスに戻る途中、石を砂利に変えている女の人に出会いました。大きな石を金槌で割っています。今カトマンドゥでは建築ラッシュで砂利が必要です。採取段階から建築現場まで人の手がもっぱら活躍しています。全世界的に森が減少している中でここだけはなくしたくないと思う反面、生活して行かなければならない人々のことも忘れてはならず、複雑です。「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。Ⅱテモテ一章九節」
一九九三年五月のUMN総会のあった一週間、幾人かのドクター達が私たちを見つけ、嬉しそうに近づいてきて言いました。「私達は病理医を必要としていました。ネパールに病理医がどうしても欲しい、だから神様に祈り始めました。そして祈り始めてから六年目に神様は答えて下さいました。あなたが来て下さり、どんなに嬉しいか。」と。
これを聞いて知珂子は思い出しました。六年前の夜更け、布団に座り直した時、心の中をよく見つめ直すようにとの聖霊の働きを強く感じ、どう祈れば良いのか判らず静かに待っていました。その後に与えられたのは、ただ一つ、夫の仕事が祝され、それも神様が喜んで下さる祝され方を、という課題だったのです。それが六年前のことでした。祈り続けました。そしてネパールに導かれた事の意味が、彼らの言葉を通して更に確信となりました。「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。ヘブル三章一四節」
一九九四年はワーカー会議の年、私たちも家族で、第三回JOCSワーカー会議に出席のため一月二一日タイのバンコックへ向かいました。到着日バンコックのYMCAホテルに泊まり、つぎの朝パタヤビーチに移動、二二日から二七日までビラナビンというキャンプ場でミーティングが持たれました。この会の目的は、ワーカーと事務局が共に腹蔵なく何でも話し合い、理解し合い、切磋琢磨しあい、祈り合い、今後のJOCSの活動の方向なども作り上げていくという実にギッシリ詰まったスケジュールの中で、課題を検討する期間となるようです。私たちにとっては全く初めての参加でしたので楽しみにしていました。恒太郎も学校から十日間分の宿題をどっさりもらっての出発です。
聖書の「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という言葉に従うため、東南アジアをはじめ海外の医療に恵まれない地域にキリスト者医療従事者を派遣し、・・・・これはJOCSの基本方針と実施要綱定款の第二章、目的の一部抜粋です。
マイナス一度のカトマンドゥから、三二度のタイ、バンコックに着きました。何という気温差、と驚いていた私達にある人が、この気温でもバンコックは真冬なのです、とおっしゃる。またまた驚き。翌日にパタヤのビラナビンへ向かい、ここに参加者全員が元気に到着し、会議は始まりました。会場周辺は静かで美しく、色とりどりの花が咲き揃い、鳥達ものびやかに歌う別天地、昨日までいた騒音とスモッグのカトマンドゥから、神様の憐れみにより、この地に取り出された幸せを感じました。
しかも一人日本で勉学中の娘との再会もここで実現し、喜びもひとしおの中、会議は「JOCSの方向性とビジョンを求めて」ー我々はいかに仕えるように招かれているかーの主題に沿って進められました。出席者全員の活動報告、数々の問題提起もなされ、現場に立つ者の悩みや模索、苦労と孤独、さらには各々のビジョンをも知り合う良き機会でした。早期問題解決の良き糸口のためには今よりも尚、事務局や担当理事、支える会等との連絡パイプを太くする事の重要性を確認しました。この事はワーカー一年目の私達にとって将来の良き指針となり、そのよい例がカンボジアプロジェクトであった事も理解できました。討議内容は事務局の抱える問題や将来的展望、特に国内活動をどう展開させて行くべきかに移行し、全員の思いの中に等しく通じていたものに、最も豊かな感受性を持つ中高生の時期に発展途上国への関心をもってほしいとの願いが大きかったのです。「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。マタイ二〇章四〇節」