ネパールの子どもたち
輪回し
新潟の相田吉之助様から柿の種が送られてきました。越後長岡浪花屋製菓㈱の元祖「柿の種」の缶に描いてあった子供の遊び、輪回しと縄跳びは今ここカトマンドの子供達が盛んに遊んでいる遊びです。日本の子どもと違って塾もなく、テレビもなく、大人からちっとも構ってもらえない子ども達の遊びですが、どこからともなく、自転車のタイヤや輪を探し出してきて棒で回しています。車からびーびーいわれても回す事に執念を燃やす子が多いようです。犬が子ども達の後を追う姿もおんなじです。縄跳びも女の子のポヒュラーな遊びで狭い路地で四五人の子が上手に遊んでいます。
浪花屋製菓㈱さんの絵が日本のいつの頃かはっきりしませんが、四五〇年前にはあったような光景です。にわとりは勿論、山羊も放し飼い、鳥も沢山飛んでいます。しかし日本の昔と違って急速に車の数が増しており、特にバイクの数は急増、子供達にとっては危険がいっぱいです。
カトマンドのクップンドールのアパートに本から切り抜いた絵を飾りました。何となく見過ごしていたルノアールの「雨傘」に輪回しを持った女の子がいました。百年前のパリにも同じ遊びがあったのです。働かなければ生活できない子供達が多いのですが、彼らも世界の子供達と同じ、遊びの天才、いろいろな場所でいろいろな道具を使って遊んでいます。
とこで真夏の七月に凧がたくさん上がります。凧はお正月、と決めてかかっている我々日本人にとっては何だか妙。四角いなんとも飛びそうもない凧がくるくるくる来る風に廻っています。糸が切れて電線に引っかかっているのも日本と同じ光景です。ただお宅に入ったのでちょっと糸を解いて持ってきてくれ、とはなかなか聞けない注文であります。それほど暇人ではないのですが。
ポカラで出会った少年
カトマンドは日新月歩、急速に近代化しつつあります。街並もさる事ながら人々の生活や持ち物も目を見張るばかり、二年前の八月に私たちが十日間、赴任を心に決め、下見にやってきた頃、ネパールは雨期、傘をさしている人は実に珍しかったのですが、去年の雨期には傘持ちの人がずいぶん増え、珍しくなく、ジーンズ姿の若い女性もグンと増えています。さらに移動に便利なモーターバイクの増え方にはすさまじい物があります。
クリスマス休暇を利用してポカラへ行ってきました。ヘワー湖の畔からのマチャプチュレは素晴らしいの一言につきます。湖の周囲に沢山のおみやげやさんが立ち並び、中には日本語で「ティーシャツししゅします。」というのがあり、凄い意気込み、ティーシャツの死守、と思いきや、刺繍しますのミスプリントで、思わずその店に入ってしまいましたが、刺繍もミスプリントされそうで、結局ひやかしただけで帰ってきました。
途中、小さな男の子がボートに乗らないか、と強烈な客ひきです。あまりお客がなかったようで、ふと乗る事にしました。三〇分百ルピー(約二百円)、でも彼の取り分は二〇ルピー。客ひきから船頭、観光案内まで一人でこなす十二才。思わず湖の真ん中にある島のレストランに一緒に入ってケーキとココアをのみました。私たちは筏で帰る事にしましたので、彼一人で船を漕いで帰って行きました。こちらを何度も振り向きながら。この次も彼のボートに乗るつもりです。
タイガース風船
ヤクルトスワローズが優勝し、ここネパールの燕党にもお祝いのお手紙が届きました。応援しようにも応援できない状態にもかかわらず、我々のヒマラヤの麓からの声援で日本一になったのだ、なんて考えているのです。我々以外にもここカトマンドに燕の大好きな人がいます。私達の住むアパートからさほど遠くない大通りに面したお店の主人で、とてもにこやかな顔をした方です。あまり広くないお店の天井に張った電線は、何百羽もの燕達の宿となっています。ビニールのカバーをかけて糞から商品を守っており、お客がくるとすばやくカバーの下から売り物を取り出すわけです。
ところで、ネパールにはいろいろな鳥が住んでいます。そもそもネパール合同ミッション(UMN)は鳥類研究家のフレミングさんがネパール入りしたことから始まりました。奥様でお医者様のベテルさんがカトマンドで診療活動を始めたのがUMNの萌芽で、今年で四〇年になります。
ネパールにはまだ虎も生息しており、最近カトマンド周辺の山々で出没し、家畜を時々襲うというニュースを聞いています。日本の虎は燕に昨年はやられてしまったようですが、病棟の子供達に配る日本から送って戴いた風船の中に、タイガースファンが使っている、いわゆるジェット風船がありました。これが実に評判がよく、破裂しても普通の風船に笛だけ付け替える事が出来ます。病室内では音がうるさいので配らずに取っておいて退院の際、おめでとう(ランムロサンガジャノス)、と言って渡しています。パタン病院に勤務するUMNの家族のピクニックにも持っていきました。遊び道具の不足している子供達にとって、それはそれは楽しいジェット風船になりました。ガールスカウトのピクニックにも、そして家の近所のネパールの子供達にも配りました。大切に暗くなるまで何回も何回も膨らませてヒューヒュー飛ばしていました。
親の使命のためにとはいえかなりの犠牲を強いられているUMNの子供達。何とか楽しい時を、充実した生活を、と願うのは私たちだけではありません。カトマンドはまだしも、タンセンやオカールドゥンガ、ジャジャルコット、等に行くと教育はやはり頭を抱える問題です。
しかし今年の語学研修に加わったエレンは長年タンセンで働いていたディックとスザンナのお嬢さんで、ディックと同じUMNの地域健康開発計画(CDHP)に勤務する事になりました。この神様の素敵な計らいに歓迎ティーパーティーに集まったUMN人から大拍手で迎えられました。「何をするにしても、人に対してではなく、主に対してするように心からしなさい。コロサイ三章二三節」
ダンカン・スチュワート・ゴードン
語学研修仲間で、ブトワールの水力発電で奉仕しているカレンとイアン・ゴードンに、男の子が与えられました。名前がダンカン・スチュワート・ゴードン。四キロの大きな赤ちゃんで、生まれて三日目に会う事ができました。夏休みを利用し、康子と一緒にポカラからタンセンへの旅行を計画していたのですが、ちょうどその時期にダンカンが生まれたのです。
パタン病院の小児科部長、ニーラムアディカリさんはネパールの赤ちゃんの三〇%は二千五百グラム以下の未熟児で、二千グラム以下にすると九%になるため便宜的に二千グラム以下をネパールの未熟児にしています、とおっしゃる。便宜的に未熟児の水準を下げても未熟児にはかわりありません。ネパールで生まれる欧米の赤ちゃんも四キロ前後あるわけですので、母親の栄養状態がかなり違うのでしょう。未熟児、そして肺炎で入院してきた赤ちゃんと、そのお母さんを診察したドクター・ニーラムは、「栄養不足、貧血のお母さんから未熟児が生まれ、免疫力の低下した子にいろいろな微生物が取り巻く、ネパールの子供の病気をなくすためには、まずお母さんの栄養状態から改善しなければなりません。」と、暗い表情を更に暗くしていました。
私達の階下のリンとジョンにも九月二八日待望の男の子ティモティ・ベンジャミン・グレクソンが生まれました。彼は、三、二キロでした。
ダンカンとテモテ
ダンカンはスコットランドからのゴードンファミリーの息子、四㎏、テモテはイングランド、グレグソンファミリーの長男で三、二㎏。カレンもリンも三人目の子供ですが、異国での出産は初めてでした。テモテはパタン病院、ダンカンはタンセン病院で生まれました。共にネパールでは最も良い分娩施設と産科医の揃っている病院ですので不安は少なかったでしょうが、彼らはためらう事なくネパールでの分娩を選びました。家族の少ない異国での出産に廻りのネパール合同ミッションファミリーが家族の替わりです。
テモテもすくすく順調に育っています。「目の色はグレーとブルーよ、ユージ」「右がグレーで左がブルー?ハンナ」「ノーノー、グレーがかったブルー」目の色は白黒させるだけでいい日本人にとって、目の色を気にするイギリス人たちを目の色を変えて見ています。 同じ異国での出産ですが、マリヤの場合はもっと大変だった事でしょう。その道のベテランの馬や牛が産科医とはいえ、ベットは藁の床、ちゃんとした分娩室ではありません。ヨセフも大変だったに違いありません。陣痛の間、おろおろしていたり、マリヤの手を握ったり、汗を拭いたり、破水の時は何をしていいか判らず、臍帯を切るには、目薬は、体重計は、産湯は、産着は、エトセトラ、エトセトラ・・・。でも聖書はたった一言、「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。ルカ二章六、七節」とだけ書かれていて、細かい事は何もなかったかのよう。
最初のクリスマスは外のどんな出産よりも貧弱な分娩室でした。 ネパールでは約十%が病院出産で、あとの九〇%は姑さん、義姉、義妹の助けによる家での分娩です。しかしカトマンド、タンセン以外はほとんど百%が家でのお産でしょう。従って周産期死亡率も高く、母親の死亡率も高いのです。 知珂子に抱かれているテモテを見てリンは「テモテは英語、日本語、ネパール語を話せる国際人になるわね。」とテモテの将来を夢見ていました。
ダサインの凧上げ
ネパールの十月は五ヶ月に及ぶ雨季後、涼しい風が吹き、カラリとした爽やかな季節です。田畑は色づき始め、ヒマールにかかっていた幾重もの厚い雲も少しづつ退き、青空の中に真っ白なヒマールの連山が悠然と姿を見せます。わが家の屋上からも眺望できる山々はやはり、素晴らしい!!。その美しさと雄大さはたとえ様が無い程の感動を与えてくれます。山を見るにも歩くにも絶好のシーズン到来です。地上は、といえばボトルブラッシュという木がその名の通り補乳瓶を洗うブラシの形そっくりの真っ赤な花が、爽やかな風に揺れて気持ち良さそうに咲いています。
ネパールの人々の心もこの頃からネパール最大の祭、ダサインに向けて喜びに溢れます。官公庁や学校が一か月間の休み、人々は故郷に帰り、遊び楽しむ時です。廻りの家々の屋上からは、男の子達の凧を上げる声、「チェーット、チェーット」が聞こえてきます。これは相手の凧の糸を切れ!!、と自分の凧に向かって命じているかけ声でなかなか戦闘的です。はたして大空で交差する凧の糸が切れるかというと、なかなかこれは無理なようで、相手の凧の糸を切るためには自分の糸を強くする工夫をしなければなりません。一例を上げれば、炊きあがる少し前のごはん汁の粘着力のある炊き汁に、糸を浸して乾かすと張りのある強い糸に変化するようです。 凧は真四角に近い菱型といったところで、デザインは色違いぐらい。絵もなく小さく、日本で子供達がお正月に上げるゲイラカイト等は見あたりません。
日本びいきのレイチェル
昨夜は階下のレイチェル(今月で十才)が夕方驚いた事にゆかたを着て現れました。友人が貸してくれたとの事ですが、このところ彼女の通うブリティシュプライマリースクールでは日本の文化を学んでいるようです。宿題のノートを胸に抱えてちょくちょくやってきては日本の伝統的な歌や遊び、衣類や花、歴史的な建造物、人物などを我々から聞き出し、書き留めました。私達が提供したありったけの参考品を学校に持っていったのですが、私達に歌わせ、テープに吹き込んだ「さくらさくら」を全校生徒父兄の前で聞かせる事までしたようです。とにかく私達や彼女の友人を通してすっかり日本びいきになってしまっているレイチェルは生き生きとし、積極的に宿題をこなし、喜びで胸が溢れていました。そして極めつけにユカタを着る事が出来てすっかり有頂天、それはそれは可愛いレイチェルのゆかた姿でありました。
彼女の弟ティモティも早や生後十週目を迎え、よく笑うようになりました。干されるオムツの数もおびただしくなり、驚くほどの生長ぶり、ただ再び水不足で四日前から市からの供給水が全く来ておらず、水タンクは底を尽き、ついにUMNから買い水をトラックで運んでもらいました。パイプの故障とか、やれやれ又?という感じです。今までも、又これからも水問題は在ネの間中つきまとう事でしょう。さらに朝から夕方までの停電も連日続いています。