ネパールの病理医の出現
病理医卒後教育の夜明け
何回となくお祈りのお願いを出してありました病理医の教育の件で神様は祈りを聞いて下さいました。病理学会の間中、トリヴブァン大学の病理のハリーゴビンダシュレスタ教授に早く病理の卒後教育の制度を作って下さいとお願いをしました。パタン病院も卒後教育を積極的に協力します、ということを示すためにも学会では癌、結核、寄生虫、検査データ、と幅広い演題を出し、討議にも積極的に参加してきました。
しかし、大勢は替わりません。ハリーゴビンダ教授は学会の後かなりお疲れのようで、卒後教育はどこかへ行ってしまいました。第一期の任期もあと一年余り、この調子では十年待たないといけないかな、と考えるのも当たり前でしょう。
しかし、四月二四日の午後、院長のモナボンガースがひょこっと部屋にやってきました。「この部屋にもう一つ椅子が必要ね。探してこなくちゃ。」「椅子ならそこに沢山重ねてありますよ、会議の時しか使ってませんので、」といいながら一つ椅子を出してクッションを乗せました。そこに座ったモナは、「若い病理医のトレーニングコースを作りましょう。そして、すぐにでも勉強に来たいという若い研修医を募集しましょう。だから新しい椅子と机が必要ね。」という話だったのです。早速パタン病院独自の病理医卒後教育のプログラム作りに入りました。
一年後の私の休暇中には米国から二四人の病理医が交代できてくれる事になりました。一年で技術的な事を覚えてもらったら後、沢山の病理医から色々な病理学を学べる最高のチャンスを神様は若い病理医に与える予定なのだ、等と一人で勝手に喜んでいました。
米国の海外協力病理医(PATHOLOGISTS OVERSEAS)の総主事ドクター・ビクター
ネパールの医学教育
一九九五年一二月ネパールの医学生がストライキをしました。試験の採点が間違っていた、ということで教官と学生の間でもめて学生が座り込み、授業ボイコットの戦術を取りました。この国の学生は試験の点数で全てが決まります。自分の行きたい科にも点数が低いと行けません。
今年の卒後教育の外科の試験は競争率が高く、かなりの点数を取らないと外科医になれませんでした。しかも試験のために仕事をしないで六ヶ月も準備をするなどは当たり前。タンセンの若いネパールの研修医は三人ともタンセン病院を辞めてカトマンデュに出てきて勉強をしています。出世の出来るポストを得るためには試験の点数が良くないといけません。必死な点取り虫がいっぱいです。
医学生ストライキのあおりを受けて病理の卒後教育の方も遅れ気味です。今年は五人の志望者が試験を受け、二人が採用されましたが、教授が大学に出てきていない状態ですので、卒後研修プログラムの方も進んでおりません。
こんな時、米国の海外協力病理医(PATHOLOGISTS OVERSEAS)からドクター・ビクターが七月からの私の穴埋めの下見にきました。それも十冊の病理学と細菌学の本を携えて。一冊が三万円もの本ですので大助かりです。私の揃えた本と同じ物もありましたので、だぶっている物はタンセン病院の図書に送りました。タンセン病院図書室の最新の病理の本は一九六〇年代のもので、時々私の診断が教科書に乗っていない、という手紙をもらいますので、その時はパタン病院の本から数頁コピーして送っていました。
時を同じくしてピッツバーグのドクター・チャールズ・リチャートから七冊の病理の本が送られて来ました。これは全て最新版の物ばかりでビニールを破いていない買ったばかりのものが三冊もありました。スローンケタリングのスターンバーグの外科病理の本など癌センターの下里幸雄先生が分担執筆された項があり、そこには沢山の日本の先生方の文献が引用されています。そこでひとしきり日本の医学の水準の高い事を若いドクターや技師達に示す事が出来ました。
「ロビンスの病理学」はパタン病院の検査科で働いていて、今年医学部にトップで入学したプラディップ・コイララが欲しいといっていた本ですので、神様からのプラディップへのプレゼントと考えてビニールのかぶった新本を彼に贈呈しました。これでプラディプが病理医になってくれれば、なんて考えは甘いですかね。でもとにかく、ネパールの卒前、卒後の医学教育がスムースに行われますように。
ネパール病理医の卒後教育
一九九六年から国立トリヴバァン大学医学部の病理の卒後研修が始まり、ハリーゴビンダシュレスタ教授が卒後教育の協力要請のためパタン病院にやってきました。大学病院が約二五〇〇件体しか検査をしていない状態ですのでパタン病院のデータがどうしても必要なのです。又電顕導入の知らせは彼にとっても願ってもない良いニュースでした。
大学には電子顕微鏡室はありますが、中は空で倉庫になっています。ここに日本から第一号機が入れば卒後教育にはこの上もない武器になります。ハリー教授は卒後教育にパタン病院と私がどうしても必要との事で、次期赴任時はトリブヴァン大の非常勤教官として話を進めにきました。もっとも二期目も基本的にはUMNの病理医として働く事に変わりありませんが、学生がパタン病院に来たり、私が定期的に大学へ行く事が一期と異なる点になりそうです。
UMNはパタン病院を含め、二〇〇四年を目標に全ての機構のネパールへの完全移行を目指しております。丁度その頃には若い病理医も一人前となり、大学の卒後教育もスムースに進むようになれば私も手を引く事が出来ると思います。一期三年間の最終段階でやっとネパールの医学界が病理の必要性に目を向けてくれました。皆様のお祈りのお陰と感謝致しております。
今後は今から勉強を始める若い病理医に研修の場を、特に病理解剖のトレーニングをさせたいと考えております。ネパールの国教であるヒンズー教の立場では病理解剖が出来ません。この為に良き研修場所が与えられますよう願い祈っています。
ニュージーランドの世界臨床病理学会
一九九五年十月五日から十月十五日までニュージーランドのオークランドで開催の世界病理学会に出席しました。学会では「ネパールの癌」という演題を出しました。準備もすっかり終えた出発の六日前の事、ニュージーランド入国のビザ取得のため出かけ、カトマンデュからパタン病院へ向けて帰路途中、止まっていた車が何の合図も無しにいきなり走り出しそれをよけようとして右に横転、右腕を打撲、炎症の熱がやっととれたのが昨夜、そして現在九〇度まで肘が曲がるようになりました。しばらくはバイクの運転をしたくないくらいです。ネパールのドライバーのマナーは悪いというより無いに等しい、というのは外国人全ての共通の言葉です。
世界病理学会の楽しみはゲストスピーカーに一九五三年エヴエレスト初登頂に成功したヒラリー卿(ニュージーランド、オークランド出身)が招かれている事でした。ヒラリー卿と握手を交わし、しばしネパールに関する話が出来ました。
「ネパールの癌」という演題の方はいろいろな質問が出たのですが、多かった質問は「なぜネパールへ行ったのか」という物で、長い長い証しをしなければなりませんでした。何があなたをもネパールへ導いたのか?という質問が多かったのですが、これは簡単、「神様の導きです。」
重要な病理医の役割?
読売新聞一九九三年五月二〇日の「重要な病理医の役割」の記事がJOCSの坂本由人さんから送られてきました。日本でも病理医の話題が新聞に載るようになってきたか、と一人悦に入っていました。
病理の仕事を始めてから一か月半、タンセンのキースフレッシュマン先生から手紙を戴きました。以下のような文面です。
「タンセンにいる我々は、あなたの組織病理報告を受け取れる事がどんなに喜ばしい事かを、あなたにお知らせしたい。的確な診断が出来ないときにも鑑別診断に沿った細胞学的記載等、たいへん素晴らしい。今までは診断名だけで、しばしば臓器名も誤っていました。子宮頚部生検が胆嚢炎だったりしたのです。我々が頚部癌を予想していたのに。標本についての臨床的情報で特別なものがあるようでしたらおっしゃって下さい。又、あなたが興味を持って探している症例などもあればお伝え下さい。時として診断が分かっていて、患者に知らせても得にならないと考えられる標本はそちらに送っていません。特に転移のひどい卵巣癌などで、癌の化学療法が出来ないため、希望がないからです。敬具。」
アンピピパルの病院のジョン・パジット先生から症例に関する手紙のついでに、「アンピピパル病院に代わって私たちからあなたの卓越した病理報告に感謝を表明します。あなたの報告は以前の報告からすると素晴らしく改善されています。」との手紙を戴きました。
病理は一方通行で報告した結果の予後が分からない事もしばしばですが、この調子ですとUMNの中ではスムースに行きそうです。パタン病院では初めてのCPCが一九九三年七月二九日に行われました。生検例での症例検討ですが、一種類しかない染色で全てを語る事は出来ませんが、それだけに鑑別診断をしっかりしておかなければなりません。
パタンのみならず、タンセン、アンピピパルでもCPCができる事を今から楽しみにしています。なぜならカトマンデュと違ってヒマラヤがきれいに見えるところですので。
海外協力病理医協会
北米の病理医のボランティア団体、「海外病理医(PATHOLOGISTS OVERSEAS)」の代表者ドクター・ビクター・リーがネパール入りし、一九九六年七月から向こう一年間のパタン病院での働きのため、まずはアパートを見つけ、家具を購入、そして病理の仕事の引継を行いました。またわが家へやってきて、わが家の使用できる物すべてそっくり、彼らが住むアパートに移し、私たちが日本に帰国の一年間使用してもらう事になりました。ドクター・ビクターはカリフォルニアからカトマンデュに入る際、東京経由でJOCSからパタン病院への寄贈品の顕微鏡も運んでくれました。
パタン病院の病理はネパール全土五六の病院診療所から送られてくる、一年間に約六千件の標本を検査しています。最近は病院見学で訪れるお客さま、即ちUMNの支持者達がパタン病院を訪れる際、必ず病理に立ち寄るようになりました。病理の部屋でコンピュータで簡単なネパールの疾患の統計グラフをお見せできるからです。先日は韓国の若いクリスチャンの一行三〇名近くが病理の小さな部屋を訪問、まさに寿司詰め教室でした。UMNからのパタン病院への予算は今年は昨年の半分になり赴任当初からもう少し大きな部屋をという病理の部屋の改築案は絵に画いた餅のままで終わりそうです。
世界の病理の大御所、ジョン・キセイニも手伝いに来てくれました。
修士課程1年生の外部試験官
トリブバン大学の微生物学部の修士課程1年生の外部試験官を依頼され、九月5日、6日、10日の3日間行いました。1日4時間にわたる実技試験と口頭試問、かなり消耗しました。しかし、若い学生とのお付き合いは久しぶりで実りのある時を持ちました。24日には2年生の修士論文のチェックを行いました。この日の10日前に修士論文を渡され、評価するわけですが、事前に指導教官から電話があったり、指導教授が学生の代わりに私の質問に答えたり、大変でした。引用文献は孫引きが多かったせいか、誤りが多く、インターネットでハーバードのペーパーチェイスで正しい文献を探し出し、訂正しておきました。しかし、100近い文献のチェックには四晩を費やしました。
11月からトリブバン大学微生物学教室からアルチャナ・シュレスタとジョティ・アマティヤの2名の修士課程の大学院生が研究に来ています。 7日と8日の二日間、第二回ネパール病理学会が開かれました。二日目の午後のセッションのチェアマンを勤めましたが、時間を守らない演者に閉口しました。外人では第一号の終生会員に選ばれました。
私の発表演題は以下の四題です。
1.ネパールの癌
2.ハンセン病患者の足の潰瘍から発生した扁平上皮癌
3.P―450陽性を示した肺胞Ⅰ型上皮とクララ細胞
4.オゾン暴露による肺P-450の変化
1.の「ネパールの癌」は2名の院生に手伝ってもらいました。残りの3題は既に論文になっているものですので特に準備はしませんでした。 学会最終日の8日の午後は千葉大学病理学教授三方惇夫先生とナガルコットに行きましたが、残念ながら山は雲に覆われていました。