ネパール語の特訓チーム(LOP)は十七人でイングランドが五人、スコットランドが四人、ウェールズとアメリカが一人、オーストラリアとカナダ、そして日本が二人づつです。医者が四人、みんな個性的で、素敵な連中です。若い技術者や医者が乳飲み子を抱えてきているそのファイトと勇気には脱帽。多摩老人医療センターの一之瀬先生から送って戴いている文藝春秋の二月号に「イギリスはやっぱり暗い」という草野徹氏の記事がありましたが、ここUMNには沢山の英国人が働いており、みんな明るく使命感に溢れていて、ネパールでは大英帝国健在です。日本のクリスチャン技術者も、海外にもっと出ていっていいような気がします。
三グループに分かれてのカトマンドゥ探索(スカベンジャーハント)などハードな物も含まれている毎日四時間の講義を終え、ファミリー別のネパール人教師による本格的一日五時間のネパール語レッスンに入りました。 ネパール語ですが、語順はもとより、敬語の使い方や助詞の位置、否定形で聞かれたときの否定の仕方など、日本語にとても近く、われわれにとってはラッキーです。ネパールのフォーク調の賛美歌はどことなく沖縄の民謡に似ていますし、伊藤邦幸先生のお荷物の整理をされに来たアンテオケ宣教会の森敏先生が、「英語じゃ負けますがネパール語では完全にこっちの勝ちですから、大丈夫ですよ」と励ましてくれましたが、その言葉に変な勇気をつけられています。本格的なネパール語の個人レッスンに入って三週間、周囲はほとんどネパール語です。大家さんの甥のラム君と少しづつ話をし始めました。彼は十一才の小さな植木屋さん見習いです。「ブレーカーが切れて停電になり大変だね」、「でも電気やさんがきょう修理にくるよ」、なんていう話をしたり、もっぱら靴や帽子やオスカーという名のドーベルマン犬を使って話をします。右の靴、左の靴、一対の靴、靴の色、履く、脱ぐ、といった調子。オスカーに「座れ!」が通じたときは思わず、ガッツでしたが、後からネパール語の先生にはきいたところ、オスカーに「座って下さい」と、言っていたようです。敬語を使われちゃ座りゃなるまい、とオスカーは思っていた事でしょう。
一月八日鳥羽季義先生ご夫妻が訪ねて下さいました。ネパール語の話、銀行、ファクシミリ、伊藤邦幸先生、土曜日の日本人学校のこと、鳥羽先生一家の初期のネパールでの生活の様子、など一時間ばかりお話ができました。九日土曜日の鳥羽先生宅で聖書の学びの時を持ちましたが、彼らは一月十二日には日本にお帰りになり、岩村昇先生の時代から続いていた日本語聖書研究会を、私たちが引き受けることになりました。「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。Ⅰペテロ 一章四節」
本格的にネパール語の講習が始まりネパール語の不思議な点を見つけだしました。ネパール文字は約四百字ほどですが、二六字しかないローマ字の国の人にとってはとても難しいようです。我々日本人にとっては小学校低学年で漢字を習っている気分です。タクシーがメーターを倒さなかったり、三倍の値段をふっかけたり、乗る気にならず、一時間かかる距離を歩いてしまったこともしばしばでしたが、ネパール語で頼めば、断られたり、ぼられたりしないことが判明しました。ですからネパール語のサバイバルランゲッジをフルに駆使して買い物に行ったり、積極的にネパール語を使い出すとお店の人もしっかりネパール語を教えてくれます。
我々のネパール語教師プレムさんはノンクリスチャンですので、時々こちらから誘導尋問的にネパール語の聖書の箇所を引っ張り出して使ってもらう努力をしましたが、そのためにはネパール語の聖書の予習をしなければなりません。でも習慣化すれば彼の中に御言葉が入っていくのではないか、などと考えてもいます。幸い彼は日本語を勉強中で日本と日本語に大変興味を持っています。
教師陣は全てネパール人(男性十女性三)で、全ての教師が英語を話します。私達の教師プレムさんは二五才の青年で日本語を少し話し、平仮名がかけるそうです。ネパール語は文法の構造が日本語と似ているため日本人である私たちに取ってはやや楽です。教科書はローマ字から英語、ローマ字からネパール文字というスタイルでしたが、私達はダイレクトにネパール文字に挑戦したい旨を申し出ました。おかげで大体読めるようになり、会話も少しながら通じるようになりました。
こんな日本人が青年教師達の人気の的になり、二十分の休憩時間になると決まって「雄二ジ知珂子ジ(ジは○○さん、という意味)チーヤ(茶)を飲みに行きましょう」とドアをノックして誘いにきます。ネパールのチーヤは牛乳を煮立てた中に紅茶の葉を入れ、おろしたしょうがを入れて漉した物です。それはそれは汚い小さな店ですが道を歩く人々を見ながら立ち飲みの二十分間、習いたてのネパール語でジョークを飛ばすと教師達はお腹を抱えて笑ってしまいます。彼らはとにかく日本人に親近感を持っています。しかしレッスンは目が回るほどのスピードでどんどん進みますので寸暇を惜しんで勉強しなければなりません。JOCSの若井先生がネパールではとにかくゆっくりとやって下さいとおっしゃいましたが、とんでもない時間との戦いでした。
ミーティングも度々もたれます。英語圏勢たちは文法上の違いにたいへん苦労し、やつれてきています。しかし二月二五日のミーティングにおいて教師陣からは今年のメンバーはこれまででいちばん優秀であると聞かされました。しかしこれは毎年言っている励ましの言葉です。アメリカから若い独身女性が遅れて語学研修に加わり十七名になりました。彼女の名はシター、心優しいとてもよく気のきく人です。「あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。詩篇三一篇七節」
私たちの語学の進み具合はファミリー別の一日五時間の語学研修が一時中断、ネパールで最も多いヒンズー教に関する学び、さらにネパールの食生活状況の学び、ワークオリエンテーションなどを終了、恒太郎の学校の春休み二週間に合わせて、ビレッジステイに出かけました。これまでの生活から離れ、山深いマダンポカラという村の中でネパール人と同居して彼らの生活を体験し、それとともにネパール語を勉強しました。これは語学研修プログラムに組み込まれているものでネパールを真に知るためのものであると思われます。
出発したのは朝の七時、バスで九時間の所、途中炎天下で故障、待つ事数時間、結局十三時間がかりで目的地に着きました。さらにゴロゴロの山道を月明かりで登る事三十分、灯の着いた家に落ち着き、そこでの生活が始まりました。 噂から予想はしていましたが、なかなか厳しいものでした。一つしかない水道は家の外ですから屋根も囲いもなく、ルンギという布をまとって浴びるシャワーはなかなか難しく、興味津々の目が気になり、冷たい水で、気合いを何回も入れないと全身洗えません。夜になると天井ではネズミが動き回り、ムシャムシャと食べ、(ネパール語でネズミをムシャといいます)食べかすを隙間からパラパラと落とす始末。もしモスキートネットを持って行っていなかったら大変なところでした。昼は蝿の集団、夜は蚊の軍団と地球上には人間だけが被造物ではないという事を知らされました。
しかしバインシ(水牛)の乳は絞りたてを沸かしたもので新鮮でやや甘くおいしいものでした。朝夕一日二食の食事はダルバート(塩味の豆汁とご飯)とじゃがいもを炒めたカレー味の野菜が少々。ただ二週間まったく同じメニューには閉口しました。恒太郎は滞在先のギミレさんから乳搾りの特訓を授け、ラシュミお姉さん(一六才)とシュラジお兄さん(一四才)の二人と大変仲良しになり、二人からネパール語を沢山教わりました。自転車も車もない山奥ですので燃料は薪、そして二年前からはバイオガスが流行っています。これは家畜の糞と人間の排泄物を混ぜ合わせ地中に埋め込み、発生したガスをパイプで引いて来て炊事に使います。ただシュラジ君は素手で脇まで浸かって使って糞をかき回し、そのまま水道の栓を開け手を洗うのを見た時だけはぞっとしました。いままで何気なく使っていた水道が急変してしまったのです。恒太郎の驚きは大変なものです。健康面では非常に神経を尖らせました。
カトマンドゥの東三二㎞にあるドゥリケルに行く話が、ジョンとポールが中心になって実現しました。ドゥリケルロッジから食事のメニューがFAXで送られてきました。なんとガーリックステーキからスイス風のブレックファスト。これはヒマラヤの麓の素敵なロッジ、と期待に胸をふくらませて出発です。
丁度ホーリーというお祭で、子供達から水風船をぶつけられたり、赤や黄色の色素を振りかけられる事からも避けられそうだというのがこの旅のもう一つの目的。バスは山道を昇り、鄙びた小さな村に着きました。どこにもホテルらしい建物はありません。歩いて小高い山に上にある素敵なロッジに行くのだ、と思いながらバスを下りると、先におりた仲間がすぐ前の四階建ての煉瓦造りの古そうな建物の中にはいって行きます。まさかこれじゃ、という言葉と一緒に後ろから中に押し込められました。中庭にはフロント、レストラン、ガーデンレストランもあります。さすがに共同トイレは、暗い上に汚く臭気ムンムン。
鍵を受取り部屋に入ってびっくり、ドアは鍵が掛からず、犠牲の水牛が殺される寸前の写真まである暗い不気味な部屋。ここに二晩寝るのか、と思うとバスで帰ろうという気もしてきました。腹を決めてFAXで注文していた料理を食べにレストランへ向かいました。暗いレストランはバッティチャイナ(停電)。でも出てきた料理は、まあまあおいしい部類でした。
しかしここの朝は超一流、空気の質といい、湿り気といい、山の朝そのもの。給仕さんにお早うございますといわれ、またびっくり。日本語を少し勉強していたそうです。朝食後シターと一緒に近くのカリテンプルに登りました。ここの眺めは素晴らしく、ヒマールが遠く雲の上に浮いて見えます。下山途中、町の入り口の小さなレストラン、ナワランガゲストハウスで昼食です。きしめんに似た手打ち麺は野菜も十分、醤油味、しばし日本を感じる事が出来ました。
ロッジには顔に赤い粉を思いきりかけられたイギリス人が二三人うろついています。「ユウジ、ナマスッテ」と、妙に変な挨拶。ハット気がつき、逃げ出したのですがそのとき遅く、真っ赤な頬を押しつけられ、ホーリーのおすそ分け。ロッジにはそれから何人ものお化けが登場です。
レストランの片隅でローナが三年生のレイチェルを寝かせつけていました。熱が高く、首と頭を冷やしてあげました。タイミング良く神様は山の水道に冷たい水を用意されていました。小さな五人の子どもの母親でカナダから来ているローナは自分のネパール語の進み具合いが遅いと悩んでいました。子供に手がかかるため勉強が出来ないのです。こんなに大家族が、ネパールに来ている事だけでも奇跡なのに早くネパール語をマスターしようという熱意に脱帽です。レイチェルは次の週の半ばに元気な姿を見せてくれました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。Ⅰテサロニケ 四章一六-一八節」
ネパール語の試験がありました。三十分のインタビューなのですが、なかなか厳しく、ネパール人同士の会話の早さで質問されます。普段、先生は生徒に解るように話してくれますが、試験官はそうはいきません。レベルがどのくらいかを短い時間で見きわめなければならず、いろいろ矢継ぎ早の質問です。しかも目の前にはテープレコーダーが置かれてあり、家族の事、日本の事、そしてなぜクリスチャンになったのか、という質問まで。ヒンズー教徒がほとんどを占めるネパールですから多分ヒンズー教徒の試験官でしょう。日本人がどうして仏教でなくてキリスト教なのかと言う疑問は当然の事です。後で仲間に聞いたところ欧米の人達は聞かれなかったようです。日本人だから試験官は特別に興味があったようです。欧米人はクリスチャンで当たり前、という考えがあるのでしょう。この時とばかり、いろいろ説明しようかと思ったのですが、肝心のネパール語の方の準備が足りなく、後悔先に立たず、です。証しをネパール語で出来るようにしておかなければいけなかったのです。申し訳ありません。兜の緒、ならぬ真理の帯を締め直さなければなりません。
所で結果の方ですが、二人ともレベル二(五がネパール人並)とされ、仲間の中では進み具合の良い方だったそうです。しかし恒太郎からは「レベル二ではまーだ、あまーい」と言われていますし、注意しなければならない発音とか文法などなお山積みです。まだまだ今後一週間に五、六時間ネパール語の訓練を受けなければなりません。
試験の後の教会での事、司会者がしきりとみんなに証しを要求しています。あと一人、といって私の顔を見つめます。ひょいと下を向くと、後ろの方で証しが始まりました。ほっとしてその証しを聞き終わり、賛美歌かな、などと思っていると、またまた司会者が、他に証しありませんか。また目があってしまう。今度は横の恒太郎の方を向いていると、左横のおじさんが証しを始めました。やれやれ、と思うまもなく、司会者、「ほかに?」。なんとしつこい司会者だろう、あと一人といってからもう三人証ししているのに。とうとう「日本人の方に」になってしまいました。結局私にさせる事が最終目標だったのです。仕方なく、数少ないネパール語を駆使して証しをしました。私の証しが終わると、なぜか司会者、正しいネパール語で通訳をしてくれました。何とも不思議なやりとりです。試験官といい、この司会者といい、神様が私に何とかネパール語で証しをさせようという計画に加わっていたのでしょう。「人の歩は主によって確かにされる。詩篇三七篇二三節」
横須賀中央教会からコイノニア一九九三年六月号が届きました。聖歌隊の賛美が聞こえてくるコイノニアは、横須賀に帰りたーい、と考えさせる罪なコイノニアでした。 語学研修の閉会式に「仰げば尊し」の歌詞をネパール語に訳して二人で歌いました。「いざさらば」の所でアルトとソプラノがこんがらがって、いささか難がありましたが、そこは欧米のクリスチャン、「ウエルダン、ウエルダン」とステーキにしてくれました。今度はメサイヤのネパール語訳に取りかかろうか、などと大胆にも考えてしまいました。というのもネパールの教会はまだ若いのでどこに行っても聖歌隊はありません。主たる伴奏楽器はタンバリンで、詩篇百五〇篇の世界です。横須賀のような素敵な聖歌隊があったらなぁ、とまたコイノニアを読み返しています。
ネパールでの二年が過ぎ、ネパール語の筆記試験の時がやってきました。大きな一問目は文章を読んでから五つの質問にネパール語で回答します。二問目は与えられた六項目の中から好きな題目でエッセイをネパール語で書きます。試験を受けると決めてから二ヶ月間、耳からはいるネパール語は全てネパール文字、即ちデバナガリィ文字にしなければなりません。話をしていても今の動詞はどんな字だったかな、とか、簡単な日常会話の単語が引っかかってきます。文法もきちんとしなければならず、なかなか話が先に進みません。しかし、ネパール語の教師も試験が近づくにつれ真剣味が増してきます。何とかユウジに良い点をとってもらおうという気持ちが十二分に伝わってきます。町を歩いていてもネパール文字に立ち止まり、もうすっかり頭の中はデバナガリってしまいました。
試験が間近になったある日、ネパールで亡くなられた方のご遺族の方が「パタン病院でお世話になった看護婦さん、ハリマヤ・グルンさんに御礼の手紙を書いてきました。」といって日本語の手紙を私に差し出されました。ハリマヤさんは日本語が読めないし、困ったなあと考えていましたら、「先生、訳してハリマヤさんに渡して下さい。」という事になってしまいました。しかたなく悪戦苦闘して訳しましたが、検査科の技師に見せる度に直ってきて、誰のいう事が正しいのか分からなくなってきました。しかたなく、三人に直してもらった物をネパール語の教師に見せたところ、またまた直されました。何だか標準ネパール語があるのかないのか不安になってきました。しかし、ハリマヤさんは読んでびっくりして、「ドクター、ネパール語書けるんですか。」
さて、何十年ぶりかの筆記試験、いささか緊張気味の当日、鉛筆と消しゴムを持って出かけました。何とかケアレスミスのないように、文法上のミスも何度もチェックして、さらにもう一度読み直して約二時間、満足いく回答が出来ました。試験が終わったその瞬間、頭も心も空っぽ、何と晴れ晴れとした事でしょう。
さて採点の方ですが、何点満点か分かりませんが四二点で、UMNのハイスコアーとの事。こいつは勉強した甲斐があった、と思いしや最近この試験を受けたのは雄二だけ、という試験官カデガー氏の弁。すなわち今年は一人しか受けていないので最高だったようです。しかし二ヶ月の間、神様は貴重な体験を与えて下さいました。