パータン病院のライブラリー
私たちは二人ともパターン病院迄バイクで通っています。雄二は朝七時半、知珂子は九時です。かかる時間は約十五分から二〇分。問題は道路で無数の凸凹がある上、継ぎ剥ぎだらけの道。あちらこちらと掘り起こされ、工事たけなわといった具合です。一度掘り起こすと元に戻るまで約二ヶ月近くはかかるようで、おかげでスモッグのみならず、想像を越える土埃りが加わり、目をしっかり開けての運転ができません。そこに悪路という条件が重なっているため、病院に着くと、ああ無事に着いて良かったと実感する訳なのです。ですから新車のバイクにも拘らず、何回修理をしたか忘れる程です。
知珂子のパターン病院の仕事は二つ、一、小児病棟訪問、二、院内ライブラリーの管理です。このライブラリーは小説、伝記、思想書、保健書、子供図書とざっと千冊程度、これらは院内勤務者や入院患者のために開放されているものです。二ヶ月前ネパール語の新図書を約百二〇冊新配置したところ、約二週間で七〇冊がなくなり、今に至っても戻ってこない状態です。このところ週五日はライブラリーに顔を出しているものの、さて残りの新図書約六〇冊をどのように置いたら良いか思案中です。仕事仲間のカナダ人マヤは健康上の理由で一か月前既に一旦帰国中で、知珂子は一人で頑張らなければなりません。
ルスとスニータ
パタン病院の中には沢山のクリスチャンが働いています。スウェーデン人の看護婦さんルトゥ・ピーターソンさんは超ベテランで、今年七二才。岩村昇先生と一緒に仕事をされた事のある看護婦さんで、しきりに岩村先生の事を「トウロドクター(大先生)、トウロドクター」と懐かしがっておりました。岩村先生とスウェーデンを講演旅行されたときのお話しを楽しそうに語って下さいました。ネパール語で講演をするという約束だったのに岩村先生はいつのまにか英語になってしまいました。どちらでもルスさんは通訳が出来ましたが、突然岩村先生が日本語になってしまい、混乱してしまった、という事です。パタン病院の歴史のような方です。
知珂子はネパール語ではあまりよろしくない言葉に近いという事で、スニータという名前に変わりました。ルトゥさんとスニータはパタン病院の小児科を巡回しました。風船を持っていって子供達を慰め、クッキーを一本づつ渡したり、大いそがしです。ルトゥがスニータですよ、と紹介をすると病室全体が「おー、」という声になります。スニータの名前の意味はとても素晴らしいという意味らしい事と、幅広い歌を歌って民衆の間で広く慕われている五〇才位のネパールソングの歌手で今いちばん人気のある人の名前です。みんなの好きな名前だったのです。
ただ欠点はスニータの夫が彼女の名前を時々、いやしばしば忘れる事で、パタン病院の門の前でルトゥさんにスニータへの伝言を頼む時にうっかり忘れてしまい、彼女に「私のワイフの名前は何だったでしょうか?」と尋ねたら、ホッホッホッホッと笑いだし、「スニータ!」と教えてくれました。隣にいたシースティンさん、不思議そうな顔でスニータの夫の顔をのぞき込んでいました。
このルスさんがスウェーデンに帰ってしまいました。空港に見送りに行ったのですが、以前とトリヴファン空港の歓迎見送りの方法が変わり、ガラス越しにしか会えません。しかしそこは三〇年のベテランのルトゥさん。出入りをチェックしていた兵隊さんに何やらネパール語でお話しをしたと思ったら、スタスタと外に出ていらしてくれました。病院ではいつもサリーだったのですが、見違えるような水玉模様のピンクのワンピース姿。スニータと抱きあい、「クリスマス前には帰ってきます。」と言い残して旅立って行きました。残されたスニータの目には何か光るものがありました。ほんの短い出会いでしたがなんだかお母さんのような人です。
病室訪問
スニータは週二日パタン病院のビジターという仕事についています。この仕事の内容は子供達の病室を訪問し、病気の状況や様子をつかみ、寝たままで遊べるためのおもちゃや本や風船を与えて励ます事です。日本から白と赤の風船が届きました。白い風船を膨らませながらハッと考え込みました。白はネパール人が喪に伏す時の色、シャンテマヤさんに「ひょっとして白い風船はダメですか?」と聞いたところ、案の定「白は病人に良くありません。」そこで白の風船にはいろいろな色で絵を描いて渡す事になりました。
もう一日は図書の本の整理です。沢山の国からきているそれぞれのミッショナリーが置いていった本がたくさんあります。英語、ドイツ語、フランス語、フィンランド語、日本語の本も二七年前の「医学と福音」が二冊ありました。多分岩村昇先生の本だったのではないでしょうか。私たちも日本語の聖書、数冊の福音書と読み終わった文藝春秋を棚に加えました。最近はトレッキングや旅行でネパールを訪れる日本人が増えてきています。先日も旅行中に喘息発作を起こした日本の若者が入院してきて発作が静まった後退屈していました。彼には特別私たちの共に歩む会の機関誌や「みんなで生きる」を渡しておきました。
トレッキング銀座
一一月という月は日本からネパール入りされた人が沢山で、感謝でした。まずバプテスト婦人連盟の一四名の方々が思い思いに持ち寄って下さった物と合わせて、JOCS事務所にあらかじめ届けられていたという「歩む会」とJOCS事務所の方々からの風船、ぬいぐるみ等を持ってきて下さいました。 ネパールに学校を作っている先生方が尋ねて下さり、JOCSよりのことづかり品として、画用紙、クレヨン、ぬいぐるみ、風船等を運んで下さいました。 JOCS新旧両総主事とカメラマン、医科大生のグループに続き、関西からの看護婦さん二名、ネパール在住の看護婦さん、そして医科大学の教授の方々が、という具合です。教授からはイワシのみりん干し、皮はぎの干物を戴いたりしました。
お陰さまでわが家の台所も潤い、暗かった病院の仕事部屋も可愛いいぬいぐるみで雰囲気が明るく感じられます。このおもちゃは入院中の子供達を随分喜ばせております。動くおもちゃミニカーや、ドアが開く車が入っていました。それらを手に取った子ども達が目を丸くして喜ぶのを見ていますと少しでも痛みが和らぐのではないかと嬉しくなってきます。画用紙、クレヨンに至ってはもう表現のしようもない喜びです。子供達のみならず、付き添いの母親たちまでがむさぼるように玩具で遊ぶという状況でもあります。若い母親達の子供の頃は遊び道具がなかったのでしょうし、充分遊んでいなかったのだと思います。スタッフ一同喜んでおり、日本のおもちゃは病院中の評判になりました。これらのオモチャは例えば月曜日に遊んだ物は火曜日に引き取り消毒、今度は違うオモチャを貸し与え翌日は又引き取り消毒、又違う物を貸すというパターンです。
我々の健康状態は戴いた日本食で生き返り、体重も増えました。ネパールは冬に入るところですが、この季節十一月中旬から十二月初め頃まで桜が咲いています。私たちがゲストハウスに滞在していた頃の二月の終わり頃にも桜は咲きました。秋、お米の収穫の時期に菜の花が咲いていましたし、やはり三月にも咲いていました。ですからネパールには季節が六シーズンあるという事も何となく判ってきました。これまでは厚い雲に遮られていた万年雪をたたえるヒマール達も日に日にその姿を見せ始め、わが家からも眺望できる季節となっています。トレッキングにこられる方が多いのも納得できる季節です。
トレッキング特別機
五月の連休を利用されてトレッキングにネパールを訪れる日本人は年々増しており、ビザの発行はインドに次いで二位だそうです。
連休の初めの四月二九日には特別機が東京からソウル経由でカトマンド入りしました。私たちの友人、足立和子さんも到着されました。彼女は私達の「共に歩む会」の第一号会員です。 この日はカトマンドのホテルを一晩に三軒も走り回りました。それぞれ日本から手紙やおもちゃ、ミニカー、文房具をこの機会にと運び込んで下さった方がいらしたからです。
足立さんのツアーのコンダクターさんから沢山の文房具が届けられました。素敵な日本の文房具です。ネパールの学校ならどこでもいいから使って下さいという事でした。私達はすぐに得田白(あきら)さんを思いつきました。彼は私達の行っている教会にひょこっと現れた若い先生です。 カトマンドの西約百㎞の所にあるパルンタール郡のバーラピルケ村、彼はここの学校の先生です。パランタールに学校を作っている日本のNGO、JECS(JAPAN NEPAL
EDUCATIONAL COOPERATIVE
SOCIETY)から送られてきているクリスチャンです。JECSは既に三三の学校を作ったそうです。教育が真っ先に必要なネパールで大切な働きをしている彼の所に送ろう、と考えたのですが、彼が電話をしてくれるのを待つ以外に連絡がとれません。二ヶ月後の七月中旬にやっと現れてくれたのですが、任期を終えて日本へ帰るとの事でした。文房具はカトマンドの連絡場所、日本工営の井上早菜恵さんにお渡しし、バーラピルケの村の学校へ届けて戴く事にしました。
コパシのヘルスポストの倉辻先生
このネパールにもJOCSの会員である倉辻さんがJICAからの派遣で働いておられます。場所はコパシ。カトマンドから約二時間ガタガタ道を車で走った山々の間の真新しいヘルスポストクリニックの責任者です。二年契約で赴任され、一年が過ぎました。運営はともかく難題がたくさんあり、しかも今あちらの村では腸チフスが流行、それの調査や診療を兼ねて山を越え村落を歩き回っておられます。自宅はカトマンドですから毎日の帰宅は無理、しかも村にはいると一、二週間は帰る事は不可能です。戻ってくると体重が必ず二、三キロはダウンするそうです。
倉辻先生のプロジェクトは日本医師会とJICAの共同で押し進められています。乾式の血液自動分析機の導入など検査のレベルではパタン病院より優れた機械を装備しています。 運営や難題といえば、UMNも地域健康プロジェクトにはかなりの力を注いでいるのですが、なかなかネパールにハンドオーバーできず、悩んでいます。ネパールの機関に任せるとたちまち機能しなくなり、埃をかぶってしまう、いつまでも外人が働いているとなかなか手渡す事ができない、といういたちごっこです。 黙々と人々のために尽くすドクター倉辻の為に、その留守を預かるカトマンドのご家族の為に、そしてコパシのヘルスポストがうまくネパールにハンドオーバーできますようにと祈らなければなりません。
憩いの水の中
夏休みが終わり一足先にネパール入りして一番心配になったのは連日の雨。きまって七時頃から降り出し夜半まで続きます。家族の航空券は四月に予約しましたのでこの雨のことはすっかり計算違いです。三人がカトマンドに到着するのが八月九日午後八時五分。雨がしきりに降っている時間帯です。昨年の今ごろ横須賀共済病院の伊藤恵子さんがいらした時にもものすごい雨のため、バンコクに引き返したのを思い出しました。
八月九日朝の病院の祈祷会では特別にその夜の天候の事をお祈りしてもらいました。オーストラリアアクセントのフランク院長もお祈りだけは普通の会話と違ってゆっくりとした英語でして、「神様は楽だなぁ」などと考えつつ祈りを合わせました。
しかし、その夜やはり午後七時頃から雨が降り始めました。UMNのドライバーさんが「この分だと遅れますね。」などといって飛行場の脇の道路を走っていたら、何と八時五分ぴたり、飛行機が一機着陸しようとしています。しかも空を見上げたら丸い雲が見えるのです。一瞬の晴れ間を利用しての着陸でした。
税関もUMNの職員という事でノーチェック、恒太郎のピストル型スーパーファミコンアダプターも無事通りました。実はこのアダプター、日本にいる時に、「こんな物ネパールの税関で通りっこないよ、なんて説明するつもり?」などとプレッシャーをかけておいたので、恒太郎は少々税関で緊張していたようです。でも無事通りました。クップンドールの家に荷物をいれ、久々の再会に話が弾んでいましたら、止んでいた雨が又降り始めました。神様は何と素敵な演出をして下さったのでしょう。 我々の家の前は小川になっていまして、この中をじゃぶじゃぶ帰ってきた訳です。神様は再び私達を「憩いのみぎわ」ならぬ「憩いの水の中」に導いて下さいました。
おもちゃ
小児病棟四五床の子供達に対し、入院期間のみという原則のもとに一人につき一、二種類のオモチャを巡回して貸し与え、翌日には違うオモチャと引き換えに前日分を回収、消毒、この繰り返しのサイクルを週に五日間行っています。これにはいろいろなオモチャを使用しています。
超音波診断室でも検査を恐がって泣く子供達をほんの一時なだめて検査をスムースにするのに役立っているのが特に音の出るオモチャで、消毒の頻度に耐えられる物が活躍しています。 最近カトマンドにはスーパーマーケットの売り場の中にオモチャ売り場がお目見えし、行く度にそのスペースは拡大されておりますが、これはあくまでもネパールの裕福階層と外国人相手のもので、一般の人々はスーパーマーケットに一歩も入った事の無い人がほとんどという現実なのです。しかし、何と貧しく病気の子供が多い事でしょう。日本の皆様のご好意によって送られたこれらのオモチャが病に苦しむ彼らの心を慰めています。
オモチャと理学療法
パータン病院小児病棟に入院中の子供達のために、日本の各地からお送り頂いたオモチャ類(大中小サイズのいろいろな車類、音の出る可愛い物やぬいぐるみ、ゴム風船、クレヨン、画用紙等)が理学療法室で使われています。 体に障害が起きてしまった子供達の機能回復訓練のために、大きな熊のぬいぐるみが大活躍。これは特別に横須賀豊島小PTAの方々の手作りによるもので、熊が着ている三枚の服は紐結び、ボタン掛け、ホック止めとバラエティに富み、疲れたら枕にもなるように出来ています。
また、卓上ピアノも熊さん同様、指先の機能回復訓練のためにしっかり働いています。理学療法士のイゾベルはカトマンドだけではなく、オカールドゥンガ、アンピピパル、タンセンとUMNの病院を駆け巡ってこの国の障害者のために働いています。
光陰矢の如し
アッという間に過ぎ去った二年、とにかく多忙で Time fliesです。イギリスではこう云います、と階下のリン・グレクソンに英語の授業で教わりました。日本でならさしずめ光陰矢の如しという所でしょう。 グレクソン一家も私達も何も判らず、二年前カトマンド入りし、全く同じ時期にUMNに属した同期生。語学研修を始め、四ヶ月後にこのアパートに引っ越してきたのも同じ時期、レイチェルもハンナもそして恒太郎もこの二年でグンと成長しました。この本当に良き隣人がそろそろ引っ越しの準備にかかっています。少し前にティモティが誕生してこのアパートでは狭すぎる為と、ジョンの勤務先が移転したために不便である事の二つの理由から彼等はここを出るのです。私達としては寂しい限りですが、仕方がありません。
二月八日早朝、レイチェル、ハンナ、そしてティモティの三人が誕生日カードを持って来てくれました。もうすっかり年など忘れていた知珂子は「アイブフォゴットゥン」の繰り返しで、少々興奮していました。三人のサープライズコール(びっくり訪問)は成功したのです。 そうです、光陰矢の如しで、最近は年をとるのも年々早くなっていく感じです。 ソーシャルワーカーのチョゴンさん
ソーシャルワーカーのチョゴンさん
日本より一足早い夏入りのネパールは五月から六月にかけてが猛暑の時期。しかも乾季は今なお継続中、途中五月の半ばに三日間雨が降り、さては待ちに待った雨季入り?と皆で喜んだのも束の間、再びカラカラに干上がり農家はトウモロコシの芽が伸びないと悩み、主婦は室内に風が運んでくるひどい土埃を雑巾片手に日に何度も拭くという作業を数カ月も繰り返しております。
ところで住所、年齢、姓名不詳、両足骨折、頭部裂傷、頭脳障害の男の子、小児病棟の副婦長が彼にバラダンという名前をつけました。このバラダン、十二ぐらいと思われますがとにかく良く食べ、眠り、奇声を発しては回りを驚かす事二ヶ月余り、後、すっかり回復、きちんとした引き受け先が現れ、退院しました。 問題は費用の件で食事を含む入院費の支払能力を当然もっておらず、国民保険社会保険制度も何もない国ですからドネーション(寄付)以外に頼るところはない訳です。パタン病院はネパール国内の病院中最も健全経営がなされている病院ですが、それでも運営内容は、患者収入八八%、UMNからの寄付一〇%、政府からの援助二%となり、大火傷等で三、四カ月にわたる長期入院は場合、両親が揃っていても支払能力は半分ぐらいがやっとで残りはドネーションの窓口に頼る以外にないのが現実です。入院患者のみならず、日に八百名にのぼる外来患者の中、何%かは医療費の支払をこの窓口頼りにやってきます。パタン病院にはチョゴン・ロンゴン(四〇才クリスチャン男性)一名がこの窓口にソーシャルワーカーとして働いております。そしてこの仕事は実は非常に難しい仕事です。なぜなら上記の例以外にも狡猾な人々は何とか騙してお金をもらおうとやってきます。娘を背中に負って病気のこの娘の薬代がないので薬代を欲しいといい、実は自分の酒代欲しさで娘は背中でただ眠っているだけだったりするのは日常茶飯事ごと、です。あの手この手の内容の真偽をみきわめねばならぬ、時には人格を傷つけかねない心労の多い仕事のロンゴンさん、いつも疲労が顔に見えます。
ソーシャルワーカーのケースリポート
パタン病院のソーシャルワーカー、チョゴン・ロンゴンさんの所に来て福祉基金を利用した数例を紹介させて頂きます。パタン病院は一年間に約四万ドル(約四百万円)の福祉基金(MEDICAL ASSITANCE FUND: MAF)によるチャリティ診療を行いました。(一ルピーは約二円です。)
第1項 D・クマーリは三〇才の母親で腸チフス穿孔で手術、一八日間入院しました。夫は生後三ヶ月の子供を彼女の所に置いて蒸発。彼女はバグマチ川の砂集積作業で彼女と子供の食費を稼がねばなりません。入院費九千五百三三ルピーはチャリティからです。
第2項 フルマヤは八カ月の女の子。カトマンデェの東の村から来ました。貧しい農家の子で、親戚がカーペット工場で働いていた関係でパタン病院に連れてこられました。巨大な膵臓の嚢腫で二回の手術で嚢腫と腸とのバイパスを形成しましたが、術後肝不全で亡くなりました。親戚と両親は三千ルピー支払、残りの一万一千百九七ルピーは福祉基金からです。
第3項 サクマヤは二一才で二人の子のお母さんです。夫と共にカトマンドへ来ました。カーペット工場の三千ルピーの給料から六百ルピーのアパート代を払って生活していましたが、サクマヤはブドウ球菌性の亜急性心内膜炎でパタン病院に入院しました。彼女の夫は二人の子を病院の母親の側に置いて仕事に行き、三人の食事や身の回りの世話をしました。しかし四四日間の入院生活でかかった費用の一万九千五百二ルピーを払う事が出来ません。そこで彼はベッドとご飯を炊く圧力釜を売って千五百ルピーを作り、病院に払いにきました。彼の妻を治してくれた病院に彼の出来る限りの事をしたのです。福祉部はこれを受け取りませんでした。ベッドと圧力釜を取り戻しに行ってもらうためです。これは最後のレプタ(生活費)を捧げた貧しいやもめのネパールバージョンでしょう。この最後のレプタの話は新約聖書ルカによる福音書二一章一ー四節に記されています。 「この世の富が正しく真剣に使われれば、貧困は撲滅できるはずです。」とは事務長補佐のジョン・ロリンスの嘆息の言葉です。ネパール合同ミッションとパタン病院を取り巻く私達の友人達がネパールの貧しい人々を覚えて祈り、捧げて下さっているために、この基金を使う事が出来ました。
福祉基金
パタン病院の福祉基金の使われた数例をご紹介いたします。
第1項 ゴルブ・シンは二五才の男性で、貧しい農夫です。彼の家は一番近い店まで歩いて二日かかります。八人家族ですが、彼の畑のほとんどが一九九三年のモンスーンで流されてしまいました。従って残った畑からは三ヶ月分の食料しか出来ません。日雇い作業でお金を得ていましたが、結核と尿路結石でパタン病院に入院しました。手術は成功しましたが、栄養不良のため回復に時間がかかりました。彼の村の友達が五千五百ルピーを援助してくれましたので、チャリティからは一万一千三百十六ルピーの支出でした。
第2項 ギリ・ジャマンは三一才、男性でバス停まで四日歩かなければならない山の奥に住んでいました。奥さんと二人の子どもを持つ農夫で自分の畑からは五ヶ月の食料しか出来ませんので、あとは日雇いでまかなっていました。彼の兄が彼をパタン病院に連れてきましたが、千ルピーの前払い金と弟を置いて山へ帰って行きました。彼は肺結核で四ヶ月入院加療をしたところで、肺葉切除をすすめられましたが、拒絶し、山の家へかえってしまいました。消息は不明で病状からすると既に死亡しているかもしれません。彼の費用もチャリティからです。
第3項 ディル・バハドゥールは四五才の農夫で村からカトマンドへ出てきました。彼の土地からは、家族六人の六ヶ月分の食料しか出来ません。あとは日雇い作業です。三年前のある日、彼はテラスから落ちて膀胱を怪我し、尿管狭窄になってしまいました。地方の病院では治らず、借金をしてからパタン病院にやってきました。九日間の入院で狭窄はとれましたが、借金を返さないと土地は取られてしまいます。先ず、借金を返すようにとかかった医療費二千六百八七ルピーはチャリティーから支出しました。
第4項 アチャリャは二四才のレンガ工で、過去五年間カトマンドで働いていました。彼の母親と弟は村に住んでおり、そこの畑では一年に七カ月分の食料しか出来ません。彼はブドウ球菌性の膿瘍から敗血症になり、五四日間入院しました。輸血も周囲のチャリティグループから供給されました。彼の友人や親戚の人が彼のかかった費用三万三千六百八四ルピーの中の一万五千六百六四ルピーを支払にきました。残りは病院の福祉基金からです。
第5項 チャンドラ・バハドゥールは二五才で弟と田植えの時期の日雇いとしてパタンにやってきました。七人兄弟の彼の家には耕す土地はなく、常に日雇いの生活をしていました。彼は腸閉塞と虫垂炎で手術を受けました。七日間の費用、五千百六四ルピーを払うために彼の父親が借金を探しましたが、田植えの時期はなかなか借りられません。この例も福祉基金からの支出です。
「共に歩む会」からの援軍
待ちに待った歩む会からの関原ゑみ子さん、富倶子さん、そして横須賀中央教会の古川幸子さんをトリヴバン空港にお迎えしたのは一九九五年九月十八日の事、そして一週間共に働き、共に過ごし、一緒に居た間はあたかも日本で過ごしている錯覚を覚えるほど気持ちの良い久しぶりに心からくつろいだ一週間でした。 今思い出してもあれは空想だったのかのようです。アッという間に過ぎ去り彼女達は帰ってしまったのです。多忙の中をやりくりして来てくれた彼女達は「共に歩む会」の事務局の仕事をしてくれており、祈りと実践の女戦士達であります。私達の住居や環境と職場を見ることを目的としてやってきてくれました。
主人の職場も私の職場もじっくり見て必要を書き留め、私と一緒に幾日も小児病棟で働き体験し去った後、わが家には彼女達が運んでくれた物がどっさりと重く残されました。百㌔に近い荷物でした。この品々はパタン病院小児病棟訪問に関する物品や私達の食生活の事を思って買い込んでくれた物、教会の方々のご好意から依頼された物、様々です。品物の向こうにお一人お一人のお顔が見えるようです。調味料など、さぞや重かったろうと思われます。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。箴言一七章一七節」
三姉妹の去った後
この運ばれた品々を見て「女性三人の力はすごいなぁー」と主人はうなり、恒太郎はワクワクし、早速、安田敏明、みゆき、あゆみ、のぞみ、淳、ファミリーにお分けしました。一九九五年十月二六日に同盟教団からネパール入りする吉持ファミリーの分も大切にとって置きます。彼らはネパールの最西、デデルドゥラという最果ての地へ外科医として、医療宣教師として奉仕する予定です。
日本出発時、台風発生の為困難があったそうですが、帰国時も台風情報の中を三姉妹は去って行かれました。 さて彼女達がネパール滞在中は雨季がまだ上がらず、美しいヒマラヤを見せてあげる事が出来ずに残念でした。ところが一ヶ月後も尚、厚い雲が山の狭間を塞ぎあの雄姿を見る事が出来ません。しかし、ネパールは国内最大の祭、ダサインの真っ直中にあり、公共機関もすべてが休み、人々は村で待つ親兄弟のもとに帰ります。周囲の家々からは大声を上げながら遊ぶ子供達の楽しそうな声と屋上では凧上げに一生懸命な男の子達の姿が見えます。雨季も明けて風が段々強くなり凧上げには絶好のシーズン到来、しかも一ヶ月の長い休校とあっては声も弾むというものでしょう。 庭の隅ではこの祭の十日間の間にほふられる山羊や鶏がヒモでつながれて鳴いています。あちらの庭でもこちらの庭でもという具合、そして刃物研ぎ職人が一日に何度も「エー刃物研ぎ」といってはわが家の前の道を過ぎて行きます。いつもはそう頻繁にやってこない彼らはダサインの期間が最大の稼ぎ時、この期間家中の刃物を研ぐ習慣なのだそうです。山羊の首を切断するための大刃のククリーやカドガーといわれる刃物ももちろん磨いくのです。
刈り入れ時
ダサインの祭に入り、カトマンドのスモッグは、やや払われたものの日常とそれほどの差を感じません。ただ交通量が減っている分、バイクの走行は楽で実に久しぶりに朝の道路で五〇㎞を出す事が出来ました。通常二〇分かかるところが五分でわが家から病院まで、しかしこれも四ー五日のみです。ジリジリ照りつける昼間とは落差の激しい朝の風の冷たさを感じる頃、実れる田の面は色づき刈り入れを待っています。外国人系の学校ではネパールの学校と違い長くて三週間、恒太郎の通うリンカーンスクールは一週間の休みです。
この祭の間、入院の患者は減り、一時的に寂しくなるのが通例なのですが、一九九五年は例年と違って大入りで、毎日忙しく病室から病室へ歩き回らなければなりませんでした。エリザベスがオーストラリアに帰国し、ピンチヒッターとしてリン・グレグソン(英国)が手伝い始めてくれたのですが、彼女も家庭の事情でしばらくの間病院に出て来れないためです。